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21/06/08 セレンディピティの喪失と利便性とエモーションと人間関係についての所感

自分が大学一年生の時は、ショーペンハウアーとか、ドストエフスキーとか川端康成とか、読んだところでわかりもしない古書を文禄堂で買ってその上にあるシャノアールという喫茶店に行くのが堕落した友人たちとの唯一の知的活動だった。

好きな音楽の話、恋愛の話、しょーもない飲み会で誰かがやらかした話。ことあるごとにその喫茶店に通い詰めてた。コロナのうちにいつの間にかそこがミヤマ系列のよくあるカフェになってしまって、思い出が薄れるような気がして以来そこには足を運ばないようにしていたし、それが暗黙の了解になっていた。

それから一年経ってようやく初めてこの店に来たんだけど、前はwifiもコンセントもない不便な場所だったシャノアールがまったく別の店になってしまっていて、その便利さと居心地のよさに怯えている この場所も自分も、感情が、大事だった感性が、色あせてしまった。残酷だ


そういうことは今までの短い人生の中でも往々にしてあって、自分が小学生の頃は聞きたい音楽を自分のものにするために、CDショップで試聴を繰り返したり、少ないお小遣いの中で盤を買うのが当たり前だった。

セレンディピティの喪失とともに利便性が向上していく。

音楽の話をすると、僕の友達はみんなそれぞれの趣味趣向を音楽に持っていて、その感覚を言語化してくれる人が多い。

もちろんそんな友達たちも自分も、利便性の恩恵を受けてより多くの音楽に触れることができているし、それによってより多くの感動を得られていると思う。けれどその感動を量×質で測るとしたら、その総量は絶対的には変化していないと思うし、現状の僕と君たちの感性とか感覚は、量によって作られた割合が大きすぎると感じる。

だからほとんどの人は自分の趣味趣向にはっきりとした軸がないし、たいして面白くもない感性と価値観でコンテンツを押し並べて消費していく。だから生涯に一つも作品なんて残さないまま、生産性とたいして深みもない感性の間で消費されていくんだろう。

中間性の存在であることを自覚しながら、メタ認知とエゴの間で生きていきたいなと常々思うし、そうやって自分は生きていけている気がする 


それはそうと、人と関わることに、関係値を求めることに疲れた
本質的には自分が人として好きなひとと時間を共有できれば、それだけで幸せなはずなのに、自分も他人も、そこにはっきりとした関係値を求める


僕と君はこの関係値にいるから、こういう建前でじゃないと会うことができない とか この関係値だから建前なしに時間を共有するのが当たり前だ、とか、既存の価値観に縛られてしまっている自分が嫌いだ。


論理と思考には限界があることを知らずに形而上の問題に正解を求めるフェーズは自分の中で終わっていて、だからこそ論理と感性をうまい塩梅で足し合わせて人と関わりたいのに、相手がそのフェーズにいないときに相手に合わせようとしてしまう自分が嫌いだ。


完全な馬鹿になって問題を問題と思わないことも、究極の理性を持って問題を乗り越えることもできない自分も他人も、世阿弥のいう離見の見を気にしすぎている

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