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セラピーがわたしにくれたもの〜自分で人生を決めていくチカラ

セラピーに出会って6年近く。 セラピストとしてクライアントにセラピーをする立場となった今でも、私自身がクライアントとしてプロのセラピストのセッションを定期的に受け続けている。 それは、セラピストになりたいと思った時に教えてもらった言葉「人を癒したいと思ったら、まずは自分を癒すこと」を忠実に守っているということもあるが、それより何より私自身がセラピーが大好きだからだ。 セラピーは私にたくさんの気づきと人生の変化をもたらしてくれた。私がセラピーで得たものを綴っていこうと思う

    • わたしがセラピーに出会うまで〜私を打ちのめした娘の言葉

      実行委員会を自ら立ち上げて大成功に終わったドキュメンタリー映画の自主上映会は、自分のことを「ただの主婦」だと思っていた私に社会との繋がりを与えてくれて、自信を取り戻させてくれた。 が、そのすこぶるパワフルな力が内側からみなぎった体験の後に、いつも通り夢も目標もない生活に戻った私は、毎日家族のためにご飯を作って食べて寝て、そしてまた次の朝に起きるという生活に耐えられなくなっていた。 「私、生きてる!」って感じられる何かが欲しい、でもやっぱり私には大したものは何もない・・高か

      • わたしがセラピーに出会うまで〜超ハイテンションからどん底へ

        そこそこに幸せだ、自分の人生をそう思っていた。 普通に学校に通い、進学し、20代は思い切り好きなことをしてシングル生活を満喫し、30歳で結婚しその4年後に母になった。やっと授かった一人娘を念願の水中出産で産み、それはもう愛おしくないはずはなかった。仲良しのママ友たちもいて集まればいつも笑いばかりだ。夫婦仲も悪くない。 だが、子育てを一生懸命やってきて10年くらい経った頃、私は自分の人生がなんだかどん詰まりだと感じ始めていた。私、自分の人生を生きてない、と。 いろいろやっ

        • わたしがセラピストになったわけ〜良い人の仮面を脱ぐとき

          私が20代の頃、祖母は認知症で随分と長いこと病院に入院していた。内臓は強かったのだが、足腰が弱かったので歩けなくなり、さらに認知症が進み寝たきりとなっていた。 最後には自分の息子(私の父)のことも認識できなくなっていた。すべてを忘れていたかのような祖母だったが、どんな時にも周りの人に感謝している人だった。病院の看護師にも、見舞いに訪れた家族にも、「いつもありがとうございます」と手を合わせて頭を下げていた。 孫の私から見ると、祖母はそんな状態になってもいつも感謝をしていて、

        セラピーがわたしにくれたもの〜自分で人生を決めていくチカラ

        • わたしがセラピーに出会うまで〜私を打ちのめした娘の言葉

        • わたしがセラピーに出会うまで〜超ハイテンションからどん底へ

        • わたしがセラピストになったわけ〜良い人の仮面を脱ぐとき

          わたしがセラピストになったわけ〜イスラエル・アダムの瞳

          マミコと私は、成田からパキスタンのカラチを経由してイスラエルのテルアビブに飛ぶパキスタンエアの飛行機に乗っていた。機内は鼻を突くスパイスの香りが充満していたが、乗って30分も経つとその匂いも気にならなくなった。 イスラエルに行く目的は、キブツという生活共同体でボランティアとして働くこと。 1900年代の初めにロシアから逃れてきたユダヤ人が集団生活を始めたのがキブツの始まりと言われている。その頃には国内各地に200以上のキブツがあり、農業や工業はもちろん、教育や娯楽などもキ

          わたしがセラピストになったわけ〜イスラエル・アダムの瞳

          優しさが循環する世界が好き ニュージーランドの旅で感じたこと

          ここで旅の話を書き始めて、大学の卒業旅行で訪れたニュージーランドの旅を思い出したので、今日はそこで出会った優しさについて綴ろうと思う。 友人達の大半がハワイやアメリカ本土、ヨーロッパの国々を選ぶ中、私が卒業旅行の行先に選んだのは、人間よりも羊の数が多いと言われるニュージーランドだった。4週間の旅の帰りの飛行機だけは予約して、大きく分けて2つの島からなるニュージーランドの、まずは北島のクライストチャーチに飛んだ。 クライストチャーチの後は徐々に南に向かって、より自然豊かな南

          優しさが循環する世界が好き ニュージーランドの旅で感じたこと

          HSS型HSPのネパール放浪記

          ネパール行きが決まったのは偶然の導きだった。 その前の年に住み込みで働いていた上高地の山荘が休みの日に私は一人で山を登ったのだが、そこでやはり一人で山に登ってきていたカズコさんという年上の女性と出会った。 私はあの頃から、初対面の人に対して「この人好き」「この人とは仲良くなれる」という直感は鋭かったように思う。カズコさんは私のそのセンサーに引っ掛かった。 笑顔が太陽みたいに明るいカズコさんと私はすっかり意気投合し、山を降りてからも文通や電話で連絡を取り合っていた。「文通

          HSS型HSPのネパール放浪記

          その人の本質の種に出会えるセラピストという仕事

          私は大学を卒業した後、長野県の上高地の山荘に季節労働者として働きに出た。もっと広い世界を体験するためにバックパックを背負って海外に行こうと思い立ったが、まずは先立つものが必要だった。 山荘に住み込みで働けば、食と住の心配はいらないしお金も貯まるだろう。なにより、大自然の中で暮らせるなんて、アルプスの少女ハイジに憧れていた私にこれ以上ぴったりな仕事はない。私はアルバイト雑誌の募集記事を見つけてすぐに応募した。そうして、6ヶ月の山荘での暮らしが始まったのだった。 私が山荘で一

          その人の本質の種に出会えるセラピストという仕事

          教員試験合格を辞退してまで私が大切にしたかったこと

          確か教員試験に合格する倍率はそれなりに高かったように思う。合格した時に周囲が驚いて、すごいね、おめでとう、と声をかけてくれたから。 合格したにもかかわらず辞退した私に、親は何も言わなかった。大学の教授には「もったいない」「みんな合格したくてもできないのに」と言われた。私は幼稚園教諭になるのなら自分が卒園した私立の幼稚園が良いなぁくらいに思っていて、東京都の公立幼稚園で働こうとは思っていなかった。 教授の言葉は、公務員になれば将来は安泰なのにもったいない、というニュアンスに

          教員試験合格を辞退してまで私が大切にしたかったこと

          HSPにとって決められた道はつまらない

          20代の私は、自分が好きなことしかしていなかった。 大学時代の後半は予定を決めずに旅に出る貧乏旅行にハマり、バイトをしてお小遣いを貯めては長期休みにバックパックを背負って北海道に3〜4週間放浪しに行った。そう、「放浪」するのが好きだった。 大体の行き先は決めてからとりあえず北海道を目指し、泊まるところは行き当たりばったり。ユースホステルなどの安宿で出会った人たちと話をして、面白そうな場所があると聞けばそっちを目指す。いわゆるツアー客が行かない「秘境」と言われる知床の池を目

          HSPにとって決められた道はつまらない