わたしがセラピストになったわけ〜良い人の仮面を脱ぐとき

私が20代の頃、祖母は認知症で随分と長いこと病院に入院していた。内臓は強かったのだが、足腰が弱かったので歩けなくなり、さらに認知症が進み寝たきりとなっていた。

最後には自分の息子(私の父)のことも認識できなくなっていた。すべてを忘れていたかのような祖母だったが、どんな時にも周りの人に感謝している人だった。病院の看護師にも、見舞いに訪れた家族にも、「いつもありがとうございます」と手を合わせて頭を下げていた。

孫の私から見ると、祖母はそんな状態になってもいつも感謝をしていて、本当に根っから性根の優しい人なんだと思って感心した。確かに昔からずっと家族にも優しい祖母だった。怒っているのを見たことがなかった。そして私は強く思うのだった。私は絶対にボケたくない、と。なぜなら、全てが分からなくなった時にその人の本質が現われるのなら、私は祖母みたいにいつもありがとうと言っている可愛いおばあちゃまにはならない。

いつも誰からも気づかれないように隠している自分のダークなところやブラックなところ、私しか知らない性根腐った姿を絶対に他人に見られたくないと思っていた。「あら、あやおばあちゃま、あんなに穏やかでいい人だったのに本性はひどく性格が悪いのね。」と思われそうで怖かった。

そうやって40歳を過ぎるまで認知症になることを心の底から恐れていた。私が恐れていたのは認知症という病気ではなくて、私の腐った性根やネガティブすぎる自分の本性が世界に晒されることだった。

そう、それくらい私は素のままの自分は汚くて醜くてずるくて、怒りや憎しみや嫉妬で溢れている酷い人間だと思っていた。絶対に知られてはいけない私の秘密くらいに思っていて、それが世間にバレないように必死に良い人をやっていた。

だが、そんな性根悪い自分を隠し続けて生きるのは楽ではない。だって、仮面を被って良い人を演じていなくてはいけないのだから。ほんとうの自分で生きていないのは結局は歪みが生まれて疲れるのだ。

私はずっと、人当たりが比較的よくて誰とでも気持ちよく話せる方だったとは思うが、ドロドロの汚らしい自分に仮面を被せて誰にでも良い顔をする八方美人な自分が本当に嫌いだった。とはいえ、ダメダメな自分(今思えば、私がそう信じていただけだったのだが)をガハハと笑って晒せるほどの勇気はもちろんなかった。

友人などから「本当に優しいよね」「素晴らしい人格者」などと褒められるたびに笑顔で謙遜しながらも、世間に見せている顔と誰も知らない本当の私とのギャップを感じて苦しかった。この汚らしい自分を知っているのは世界で私一人だ。

そんな私が心理セラピーを受けるようになって、性根腐っていたと思っていたダークな自分のことを少しずつ愛おしく感じられるようになった。その存在を認めて許してもよいのだと知ったのだ。

それは、頭で考えて「どんな自分もいていいんだよ」と説得するのとは全く違う。

汚くて醜くてずるくて、怒りや憎しみや嫉妬で溢れていると思っていた私の心のその下にいる、本当の私に会いにいくのだ。

ドロドロの自分と向き合うのは、初めは勇気がいった。だが、心の深いところに潜っていくと、表面的な怒りや嫉妬や憎悪の下にいたのは小さい子どもみたいに叫んでいる私だった。

「私のことを見て!」「愛して!」「わかって!」「助けて!」と叫んだり拗ねている私は、寂しかったり悲しかったり、無力感に苛まれている。

その声に耳を傾けて、認めて、受け入れると、小さな私は安心して本来の姿を表してくれる。そこには、怒りとか妬みとか寂しさも悲しみもすべてを包み込むような愛しかなかった。

それが私の、そして誰しもが持っている本質だと体感を伴って知った時、いや、私の魂が思い出した時、私は安堵という言葉では表せないくらいの平穏を感じられた。

どんな私も初めから赦されていたではないか。ああ、これだよ。この平穏さ。この静かな大丈夫感。すべてはそのままで赦されているこの感覚。何もないのに全てがある感じ。ずっと忘れていたけれど、私がもともと知っていたこの感覚。いつもどこかにうっすら感じていたこの感覚。私が私にやっと還ってきたと思った。

こういう体験を何度かして、すっかりセラピーの虜になった。こんなにすごいの他の人にも知らせたい!という思いが芽生え、私はセラピストを目指そうと思うようになっていった。実は、絶対にこの仕事をしたい!とこんなにも心が昂ったのは人生で初めてのことだった。

ちなみに、あんなにも恐れていた認知症のことはもう怖く無くなっている。自分の中にドロドロの自分はまだたくさんいるけれど、それは人間でいる限り自然なことだと言葉通り「腑に落ちている」し、一見どんなにネガティブな感情が私を支配しても、その根っこにある愛と平穏しかないあの場所を知っている。すべてを晒け出す必要もないし、ただその時その時に自分であれば心地よいのだ。

そうして、今はセラピーをする側になった。

セラピストは、クライアントが自分自身に還っていくのを伴走するガイドだ。クライアントにセラピーをする時、私はこの絶対的な平穏が私たち誰の中にもあると知っている。

だから目的地がどこかわからない心の旅で私がすることは、その人が安心して自分の中を旅していけるように、何があっても大丈夫だと信じてそこに一緒にいることだけだ。私はそれがセラピーのスキルよりもずっとずっと大切だと思っている。

どんな自分に出会うのかわからないのに自分の心の奥に潜っていくのは怖いこともあるだろう。私も怖かった。でもそんな時、私はその人の手をとって一緒にその人の心の奥に潜るのだ。どんなにクライアントが不安になっていても、私は一緒に不安にはならない。何があってもどんな自分が出てきても大丈夫だと知っているからだ。

人の心は準備ができたところから開いていく。その存在を赦されたところから緩んでいく。ただ寄り添っているだけでも変化していく。受け入れられたところから、本来の姿に還っていく。下手にこじ開けたり無理矢理引っ張ったりする必要は全くない。

今はまだ赦せないものも受け入れられないものも全て包んで、何もかもが初めから赦されているから。

私はただ一緒にそこにいて、その人の中にある愛を信じて見つめている。その人自身がまだ自分の愛に気付いていない時でも。

そしてその人が、自分の内側からの気づきを得て自分と仲直りをする時、心の平和を取り戻す時、人の心の根っこはやっぱり愛でできているのだと確認して、感動で私の心は震える。

人が本来の姿に還っていくのをすぐそばで見せてもらえるなんて、これ以上幸せなことがあるだろうか。


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