セラピーがわたしにくれたもの〜自分で人生を決めていくチカラ

セラピーに出会って6年近く。

セラピストとしてクライアントにセラピーをする立場となった今でも、私自身がクライアントとしてプロのセラピストのセッションを定期的に受け続けている。

それは、セラピストになりたいと思った時に教えてもらった言葉「人を癒したいと思ったら、まずは自分を癒すこと」を忠実に守っているということもあるが、それより何より私自身がセラピーが大好きだからだ。

セラピーは私にたくさんの気づきと人生の変化をもたらしてくれた。私がセラピーで得たものを綴っていこうと思う。

私は小さい頃から優柔不断なところがあった。HSPあるあるだが、周りの人の気持ちを考えすぎて自分の気持ちを言えなかったり、何かを決める時も心のどこかで他人の顔色を伺っていたりした。他の人は喜んでいるか、みんなの望む通りにできているか、と。

特に母の目はいつも気にしていたと思う。大人になってからもよく思い出したのは、母と服を買いに行くときのことだった。母はとてもおしゃれな人で、特別な美人というではないのに独特の雰囲気があってどこにいても目立つ人だった。

母が選んで買う服は絶対だ、そう思っていたし、小さい時から母が選ぶ服を何の疑問もなく素直に着ていた。この服は着たくないなどと泣いた覚えがない。だが小学生の高学年になってくると、私も自分の着たい服や着たくない服がわかるようになってきていた。

ある時、服を買いに母とデパートに行った時のことだ。もうすっかりどんな服だったかは忘れたが、私は気に入った服を見つけた。私は恐る恐る母にそれを見せて「これがいい、かな。」と遠慮気味に主張してみた。

母は「こっちのほうがいいわよ。」と言って、私のために見繕ってくれた服を見せた。母がこっちが良いと言ったら、そうなのだ。おしゃれな母が言うのだからそうに違いない。母のセンスは絶対なのだから。私は、「あ、そうだよね。」と言って自分の選んだ服を元あったところに戻した。

私はその時もやもやとしたものを感じていたからこそ、この思い出がずっと大人になっても私の心を支配していたのだと思う。なぜなら、私の服選びの基準はずっと「母のお眼鏡に敵うか」だったからだ。

結婚して初めて実家を離れた私だったが、実は結婚してからも随分と長い間、服を選ぶ時には母の顔がチラチラと脳裏に浮かんでいた。この服を着てたら母が何て言うだろうといつも意識していた。

詳しくは覚えていないのだが、セラピストの仕事を始めようとしていた頃に、その時困っていたことをテーマにしてセラピーを受けた。

セラピストがいろいろと聞いてくれるうちに、私は無意識に「自分で決めたら間違ってしまう」ことを恐れているということが明らかになってきた。

自分で決めたら間違ったと最初に感じた自分を思い出したら、それが小学生の頃に母と服を買いに行ったときのことだった。記憶の中の小学生のあやちゃんが自信なさげに気に入った服を手にしていた。この服を母は何て言うか、母は気にいるだろうか、と不安に思いながら。

そして、母が他の服の方が良いと言った時に、私は自分が決めることは間違いなんだと感じて、悲しみや自責の気持ちが小さな私の身体の中にあった。悲しみや恐れを持たなかったら、自分を強く主張して母を困らせてしまうかもしれない。母に嫌われてしまうかもしれない。そうしたら、母にはもう愛してもらえないかもしれない。小さな私はそう信じていた。

セラピーで、そのあやちゃんが感じていた不安や悲しみ、恐れに居場所を与えてあげるとそれらは消えていった。悲しみと恐れは、私が大好きな母をがっかりさせないために、母にとっての良い子でいることで居場所を確保しておくために、サバイバルの戦略として自分の中に持つと無意識に決めていたものだった。

悲しみと恐れを持ってまで、母の側にいたかったのか。小さいあやちゃんの母への愛を思って、大人の私は涙した。

感情を手放したあやちゃんは、母に「こっちがいい」と素直に言えていた。そうして本当は着たかった服を着て嬉しそうに笑う私を思う存分味わった。母もそんな私を見て笑っていた。「自分で決めたら間違える」という、ずっと握りしめていた私の思い込みは消えていった。


こんな風に過去の私を癒すことを続けるうちに、私は「自分で決めたら間違う」という思いを少しずつ手放していった。同時にそこについていた「間違ってはいけない」という思い込みも少しずつ薄れていった。

それは突然何でも自分で決められるようになるような大きな変化ではなかったが、少しずつ、しかし確実に、小さな決断から大きな決断までを自分で決めても大丈夫な私になっていった。

以前、自分で決めたら間違ってしまうと信じ込んでいた時は、いつも他人の意見を求めていたし、何かを決める時も誰かの許可が欲しかった。正しい答えを知りたかった。だって私一人で決めたら間違うんだから。聞く相手は様々で、夫であったり、親であったり、友人であったり、師匠であったり。そうやって決めたことが思った通りにうまく行かないと、私は自分のことも他人のことも責めていた。

今の私はどうだろう。相変わらず、自分で決めたことでも間違ったなと思うことはフツーにある。先日も、カフェでメニューの選択を間違ったと思ったことがあった(笑)。だが、間違うことがそんなにダメなことだとは思わない私に変化している。人間だもん、間違うよな、という感じだ。

そもそも、間違いって何?自分が「それは間違い」と決めているだけのことだ。やってみて違うと感じたら、やり直したり別のことをやってみれば良いだけの話だ。

そうして、自分で決めていくことに怖さをあまり感じなくなってきたら、何かを始める時や選ぶ時にも自分の気持ちを大事にして決断を下せるようになってきた。誰かの顔色を伺ったり遠慮したりすることなく決められるようになると、例えばそこに相手がいるようなときにも自分の気持ちを素直に伝えられたり相手の気持ちも余裕を持って聞けたりする。何が何でも自分を優先するんだ、と頑張る必要もない。

本当の意味で自分を尊重して大切にできて初めて、他人のことも尊重して大切にできるのだと、私は体験を通して知った。まずは自分のコップを愛で溢れさせて、溢れた分を他の人に分ければ良い。

シャンパンタワーのてっぺんにいる私のグラスから溢れた愛は、誰かのグラスを溢れさせ、またそのグラスから溢れた愛が他の誰かのグラスを溢れさせる。それがどんどん広がったら、世界は愛で溢れるに決まってる。こんなワクワクすることはない。

今日も私は、世界が平和になることを願いながら、自分のグラスを満たそう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?