HSPにとって決められた道はつまらない

20代の私は、自分が好きなことしかしていなかった。

大学時代の後半は予定を決めずに旅に出る貧乏旅行にハマり、バイトをしてお小遣いを貯めては長期休みにバックパックを背負って北海道に3〜4週間放浪しに行った。そう、「放浪」するのが好きだった。

大体の行き先は決めてからとりあえず北海道を目指し、泊まるところは行き当たりばったり。ユースホステルなどの安宿で出会った人たちと話をして、面白そうな場所があると聞けばそっちを目指す。いわゆるツアー客が行かない「秘境」と言われる知床の池を目指して、湿地帯を長靴で歩くハイキングをしたり、ユースホステルで出会った人たちと一緒に礼文島を8時間かけて歩いたりした。

そういうちょっと面白くてスリルのある旅が好きだった。ツアーのように、行く場所も食べるものも御膳立てされた旅行は、退屈そうに見えて全く魅力を感じなかった。全部自分で決められることの自由さに、私は魅せられていた。

もしかしたら、あの時バックパックの旅に一目惚れでもしたかのようにのめり込んだのは、それまで高校までの人生でずっと誰かの決めたレールに疑問もなく乗っかってきたことに気付いた私の小さな反逆だったのかもしれない。

ちなみに、バックパッカーになったきっかけは、大学2年の時にやんちゃな友達に誘われてイスラエルにボランティアをしに行ったのがきっかけだったのだが、それについてはまた別の機会に書こうと思う。


さて、学生がバイト代で数週間の旅をするには、やはり節約が必要だった。北海道を回る旅の中で、私はいかにお金をかけずに旅をするかに命をかけていた。

友人たちがグアムの高級ホテルに泊まる旅行に行くのをちょっと心の中で馬鹿にしながら、JRがお金のない若者向け(?)に販売していた「青春18きっぷ」で東京から北海道まで普通列車や急行(確か特急には乗れなかったはず)を乗り継いで行ったことや、ヒッチハイクで次の目的地まで行けたことを、武勇伝のように誇りにさえ感じていた。

まさかその北海道に13年後に住むことになろうとは思いもしなかったが。

学生時代の私は幼稚園の教員を目指していた。4年制大学で幼稚園教員免許を取得でき、さらに東京の実家から通える大学に通っていた。

大学の友人たちが就職活動をしていた夏、私は北海道の東に位置する酪農地帯にいた。私は北海道が気に入りすぎて、北海道らしい生活を体験したくなったのだった。

道東の小さな町の農協に直接電話をして、農家でファームステイをしたいと申し出た。あの頃、ファームステイなんてかっこいい名前はなかったと思うが。その町の農協長の計らいで、彼の家に酪農実習生として夏の間だけのファーマーズライフが始まった。

酪農高校の女子生徒2人と一緒に、朝夕の牛の搾乳と日中の牧草地の草取りに勤しんだ。もともと自然が大好きで、小さい頃に一番好きだったアニメが「アルプスの少女ハイジ」だったし、私の初恋はヤギ飼いのペーターだったのだ。

北海道に住む今、それがいかにステレオタイプの「北海道ライフ」だったかとわかるが、あの頃の私にとっては「北海道の暮らし=牧場の暮らし」だったのだ。浅はかだ。そもそも、ハイジのおじいさんが飼っていたのは、牛ではなくてヤギのユキだったではないか。

結局4週間の滞在予定だったファーマーズライフは、3週間で終わることになった。

北海道に渡る前に受けていた東京都の教員試験の1次試験に受かり、2次試験を受けるために東京に戻らなくてはいけなくなったのだった。サプライズ。全く勉強もせずに、教育実習先の先生から受けたらどう?と言われて受けただけで、まさか受かるとは思ってもいなかったから北海道の旅を計画していたのに。

場違いな程に真っ黒に日焼けした顔で臨んだ教員試験の2次試験は、グループ面接と歌の実技試験だった。

グループ面接では、どうして幼稚園教員になりたいかと聞かれ、私は通っていたカトリックの幼稚園で大好きだったシスターとのエピソードを話した。

シスターが行事のために作っていた厚紙の天使の羽を借りて遊んでいた私は、はしゃぎすぎてそれを破いてしまったのだ。絶対に怒られる!とビクビクしながら勇気を出して「ごめんなさい」と謝った私に、シスターが言った言葉が「謝ってくれてありがとう」だったこと。それにとても感動して、私もそんな寛容で優しい幼稚園の先生になりたい、というようなことを話した。

続く歌の実技は楽しかった。超真面目な顔をした面接官3人の前で、童謡の「ピクニック」を即興で振り付けをつけて歌うというお題だった。ラララララあひるさん、ガアガア♫というあの歌である。なんと私は、終始笑顔で、振り付けも二番までステップ付きで完璧に踊り、ガアガアやメエエエは江戸家猫八並みに声帯模写をして真剣に歌い上げた。

緊張して臨んだはずだったのに、面接官はみんな幼児だと思って歌ったので、歌ううちにどんどん緊張が解け、最後には1人でウキウキしてくるほど楽しい経験だった。

そして、またサプライズはやってきた。2次試験にも合格してしまった。「自分が楽しんでいるとうまく行く」という私の人生のパターンはこの時発揮されたと思う。

結局私は、せっかく合格した教員を辞退した。4年近く大学で教育について学び、実習もしてきたけれど、こんな人生経験のない若造が子どもたちに何を教えられるだろう?もっと広い世界を見てから子どもたちにいろんなことを伝えたい、と考えたからだ。これは、親にも先生にもなかなか体の良い言い訳になった。というのも、就職して毎日会社に行く自由のない生活をしたくなかった、というのが誰にも言わなかった本当の理由だったからだ。今、初めて言った。

その後もずっと、私はいわゆる「就職」をせず、職を転々とした。山小屋の住み込みから国連機関の契約職員まで。幸いにも実家に住んで親も文句を言わなかったので、パラサイトシングルとして好きなことを謳歌できた。

しかし一方で、学生時代の友人達が名の知れた企業に就職してキャリアを積み重ねていくのを見て、私は社会人失格で、何事も長続きせずに何事も極められないダメな人間だという思いを募らせていった。

HSPの特性を知った今、会社組織で働くのが苦手であることも、自由をとても大切にすることも、そりゃそうだよね、と自分を受け入れられるようになっている。

自分をダメな人間だと否定してずっと苦しんでいた思い込みから抜け出すには、その後随分時間を要することになったが、自分の苦しみから目を背けないでよかったと、今心から思う。

自分と向き合うことで、私は私を救いたかったのだと思う。自分の人生を誰にも縛られずに生きていくために。





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