教員試験合格を辞退してまで私が大切にしたかったこと

確か教員試験に合格する倍率はそれなりに高かったように思う。合格した時に周囲が驚いて、すごいね、おめでとう、と声をかけてくれたから。

合格したにもかかわらず辞退した私に、親は何も言わなかった。大学の教授には「もったいない」「みんな合格したくてもできないのに」と言われた。私は幼稚園教諭になるのなら自分が卒園した私立の幼稚園が良いなぁくらいに思っていて、東京都の公立幼稚園で働こうとは思っていなかった。

教授の言葉は、公務員になれば将来は安泰なのにもったいない、というニュアンスに聞こえたが、私はずっと同じことをしている自分の将来が想像できなかったし、それは安泰かもしれないけれど退屈だなと心のどこかで感じていた。

そして、みんな合格したくてもできないくらい大変な試験なら、私が辞退したことで合格した人がいたわけで、誰かに貢献できたとさえ思っていた。

そして大学卒業後、私はすぐに就職しなかった。その頃はバブル期の最後辺りだっただろうか。友人達は金融、商社、メーカー、航空会社など名だたる企業にどんどん就職していたが、私はそういう会社のネームバリュー的なことにあまり価値や魅力を感じていなかった。というか、興味がなかった。

「幼稚園という人格形成に大事な時期の子どもたちに、大学出たての私なんかが教えられることは何もない。もっと広い世界を見て成長してからでも先生になるのは遅くないのではないか。」

今ではこれを、会社になんか飼い慣らされたくないと威勢の良かったワガママお嬢の大義名分だったなと笑えるが、当時は真剣に進路を考えて就職しない道を選んだ。とはいえ、やはり毎日会社に通って言われた仕事をするのは嫌だと思っていたから、体の良い大義名分が必要だったのだろう。

そう、私にとって「会社で働く」というのは、嫌なことだったとしても上司の言う通りに働かないといけないことだと思っていて、自分が組織の中で何かクリエイトできるなどとは思っていなかった。学生時代のアルバイトで、社会はそういうものだと思い込んだのだろうか。あの頃の視野の狭さに苦笑するしかないのだが、そうやって啖呵を切って進路を決めた割に、その後何年か経つ頃には、私は自分自身を責めるようになっていった。

みんなは会社が嫌だと言いながら社会人をしているのに、私はしんどいことから逃げた弱い人間だ、と。きっと、自由に生きていても何一つ達成してこなかったという思いが、私を弱気にさせたのだと思う。そんな風に苦しんでいた頃の私も、全部必要だった!と思えるようになるのはもっともっと後のことになる。

話を戻して、卒業した年のゴールデンウィーク前にリュック一つで私が向かったのは、長野県と岐阜県の県境にそびえる北アルプスの麓、上高地だった。ここで山荘のスタッフとして住み込みで働いた。

集まってきていた同僚たちは、私くらいの年齢から40代まで、一癖も二癖もあるような人たちばかりだった。上高地の標高が高かったので、私たちは一般社会のことを「下界」と呼んでいたのだが、その下界ではちょっと生きにくいタイプの人たちが自分の居場所を探して行きついてきたようなところもあったかもしれない。今思えば、あそこはHSP博物館とでも言えるような場所だったかもしれない。音楽や美術の才能に長けていた人、洞察力が半端ないゆえにきっと下界では浮きまくっていただろう人、共感力ゆえに人との付き合いに疲れた人・・・みんなとっても優しくて、個性豊かで、上高地での数ヶ月は全然退屈しなかった。

山荘の仕事は部屋の掃除から食事の準備など、朝と夕方が忙しかった。朝のルーティンワークが一通り終わった休憩時間に1人で過ごすお気に入りの場所があった。山荘から登山道に続く道を登っていくと、「風の谷」と私が名付けた(もちろんナウシカからいただいた)川を見下ろす絶景スポットがあり、私はそこでボーッとしたり、絵を描いたりして過ごした。風が頬を撫でるのを感じたり、キラキラと光る川の流れをただ眺めているのが好きだった。

自然の中にいると、私は大きな宇宙の中の地球という小さな星の一部でしかなくて、上から見たら顕微鏡でやっと見えるくらいの微生物のような存在なのだと感じられた。月並みな言い方だが、大自然に抱かれていると、私の悩みなんてほんとちっぽけだな、と思えたのだった。

上高地のシーズンは雪が降る前の11月の初めに終わる。ひと夏の仲間たちはそれぞればらばらに下界に降りていった。私はそこで貯めたお金を握りしめてその冬ネパールへ旅立った。すっかり山の虜になっていた私は、ヒマラヤをこの目で確かめたくなっていたのだ。


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