その人の本質の種に出会えるセラピストという仕事

私は大学を卒業した後、長野県の上高地の山荘に季節労働者として働きに出た。もっと広い世界を体験するためにバックパックを背負って海外に行こうと思い立ったが、まずは先立つものが必要だった。

山荘に住み込みで働けば、食と住の心配はいらないしお金も貯まるだろう。なにより、大自然の中で暮らせるなんて、アルプスの少女ハイジに憧れていた私にこれ以上ぴったりな仕事はない。私はアルバイト雑誌の募集記事を見つけてすぐに応募した。そうして、6ヶ月の山荘での暮らしが始まったのだった。

私が山荘で一番好きだった仕事は、売店の売り子だった。これは山荘の仕事の中でも一番に人と接することが多い仕事だ。上高地の河童橋という観光地からゆっくり歩いて45分ほどの場所にあったその山荘を訪れるお客は、観光地からちょっと足を伸ばしてきた人と、さらに奥の北アルプスの山々に登る人たちがちょうど半々くらいだった。

大自然を味わいに集まってくる人たちは、疲れの中にも達成感のようなオーラを発していて、束の間の休暇を楽しんでいる幸せな気分がこちらに伝わってくるのが好きだった。そこで笑顔で人々を迎えたり、送り出したりするのが、なぜだろうか、私をとても幸せにした。

今、思ったのだが、この感覚は心理セラピストとして仕事をしている今とよく似ている。

クライアントはある意味、非日常ともいえるセラピーを受けて自分を取り戻して、また日常の生活に戻っていく。山に来る人たちは、山の美味しい空気と美しい景色、そして身体全体で感じる自然の氣に癒され、日常で抱えている雑多なストレスや本来の自分に被せている仮面を手放す。

自然の魔力も手伝って、私たちはもう一度自分自身の根っこというか、魂というか、そういう何かとても神聖なものと繋がって、生命力を取り戻すのだと思う。そうやって自分が十分に満たされてまた日常の生活に戻っていくとき、以前とはちょっと違う視点から世界を眺められたり、人にやさしくできる気がする。

心理セラピーを受けに来る人は大抵、怒っていたり、自分や相手を責めていたり、または悲しみに暮れていたり、どうしようもない不安に駆られている。

セラピーではそれら表面的な感情を緩め、自分を縛っていた固定観念や思い込みを外し、自分を守るために何重にも被っていた仮面を少しずつ脱いでいく。

玉ねぎの皮を剥くように一枚一枚剥がれていくとき、真ん中にその人の本質の種みたいなものが現れてくるのを見せてもらえるのだが、私はその瞬間にぞくぞくするくらい感動する。

その種は、その人だけの生命の源ともいえるようなもので、誰一人として同じ種はない。たんぽぽの種からはたんぽぽが咲くように、薔薇の種から薔薇が咲くように、どの種もどの花もどの命もそのままで本当に本当に美しい。

何か無駄な操作をしなくても、種はすでにどんな花になるのか知っているのだ。たんぽぽは薔薇の花を咲かせたいと願うだろうか?他の誰かのような花を咲かせたいと頑張る生き物はニンゲンくらいなものだろう。

人は、その手段がセラピーであれ何であれ、心の奥の奥にいる本来の自分自身とつながっていくとき、自分が元々持っている種に気づけるのだと思う。

それは、頭でこねくりまわして考えたような理想や、理屈で導き出した答えではなくて、もう、生命の根源に初めからあったようなその人オリジナルなものだ。本当は初めから、その人の魂が知っていたような喜びや愛そのものだ。

セラピーで、長い間蓋をして忘れてしまっていた自分に出会うと、人は自信を取り戻してキラキラと目を輝かせる。本来の自分に再会して仲良くなるって、こんなに力を取り戻してくれるのだ。

私はそのプロセスをその人のそばで一緒に見させてもらえることがとてつもなく幸せだ。そして、非日常体験であるセラピーを終えて、穏やかな心で日常に戻っていくその人の先に広がっている平和を思い描いてまた幸せになる。

かつて山荘を訪れる人たちが笑顔で帰っていくを見ているのを幸せに感じていたのは、もしかしたら心のどこかでこの感覚を感じていたからかもしれない。

そして私は今日も、心の中で「いってらっしゃい」と呟きクライアントを笑顔で見送るのだ。また辛くなったらいつでも帰っておいで、という気持ちで。



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