HSS型HSPのネパール放浪記

ネパール行きが決まったのは偶然の導きだった。

その前の年に住み込みで働いていた上高地の山荘が休みの日に私は一人で山を登ったのだが、そこでやはり一人で山に登ってきていたカズコさんという年上の女性と出会った。

私はあの頃から、初対面の人に対して「この人好き」「この人とは仲良くなれる」という直感は鋭かったように思う。カズコさんは私のそのセンサーに引っ掛かった。

笑顔が太陽みたいに明るいカズコさんと私はすっかり意気投合し、山を降りてからも文通や電話で連絡を取り合っていた。「文通」とは懐かしい響きだが、メールなんてなかった頃の話だ。

彼女が「ネパールに行きたいけど、一人で行くのはちょっとなぁ」と言った時、私はすぐに「それ、行きたい!」と答えていた。楽しいことにはすぐに飛びつく、刺激が大好きな私のHSSな部分だ。

そうして向かったネパールでの目的はトレッキング。湖のあるポカラという町から見えるアンナプルナの麓をぐるっと一周するコースを選んだ。

山が好き、と言ってもさすがに7,000〜8,000m級の山には登るつもりはなく、ヒマラヤを眺めながらのんびり歩きた〜い♫くらいのノリだった。なので、ガイドと行くトレッキングツアーなら8日間で歩くコースを、ガイドを雇わずにカズコさんと2人でのんびり11日間かけて歩くことにした。かなりゆっくり。

そうなのだ、急ぐのはいやだった。気に入った場所があったらそこに連泊するくらいの余裕を持っていたかった。こんなところにも自分のペースを大事にしたいというHSP気質が表れていたのだと思う。

ネパールは私が初めて訪れたアジアの国だった。人々の貧しさは想像以上だったが、隣のインドを旅してからネパールに入った人たちは皆口を揃えて、ネパールは平和で天国のようだと言っていた。カトマンドゥの喧騒は、初アジアの私には十分刺激的だったが、インドのカオスレベルはネパールの比ではなかったらしい。

トレッキングをする中年以上の欧米人の中には、自分たちは小さなバックパックだけを背負い、地元のシェルパたちに大きな荷物を運ばせている人もいた。その頃の私は、自分の荷物は自分で持ってこそ!と思っていた根性野郎だったので、そんなオジサンオバサンたちをちょっと見下していたところがあったのだが、今もし私がヒマラヤに行ったら、きっとシェルパに荷物を運んでもらうだろう。まず身体をいたわることの方を優先したい(笑)

トレッキングコースの途中にある集落の子ども達は外国人(ここでいう外国人は、ネパール人ではないという意味)のトレッカー達に慣れていて、私たちを見かけるとササーッと寄ってきて、人差し指を一本立てて「ワンダラープリーズ」とか「チョッコレー、プリーズ」といってお金やチョコレートをねだってきた。

その子達を無視してひたすら歩き続ける外国人もいれば、小さなお菓子をみんなに配る人もいた。私はどう振る舞っていいのか迷っていた。

お金を渡したら、きっとこの子達の家族の収入の足しにはなるだろう。だが、働かないでお金をもらえちゃうって、この人たちのためにはどうなんだろう?じゃあ、お菓子は?虫歯になっても歯医者もいない山の暮らしなのだもの、お菓子をあげるなんて無責任ではないかな。

そんなことをしても本当にその人達のためにはならないのではないだろうか、いや、「この人たちのため」って私は自分を何様だと思っているんだろう、上から目線の偽善か?1ドルやチョコレートを渡して良いことをした気持ちになっても、それはただの私の自己満足ではないだろうか・・

そんないろんな思いがぐるぐると回り、結局私は子ども達に対して何をすればよいのかわからなかった。それで、休憩していると集まってくる子ども達には日本の手遊びを教えたり、ジャンケンでキャッキャと笑ったりして過ごした。


山では水は貴重だ。水は、子ども達が裸足で山を降りて、川からバケツで汲んできていた。標高が高いから気温は低いとはいえ、数日も山を歩けば汗もかくし、やはりシャワーくらいしたくなる。

山の集落の小さな宿では、バケツに入ったお湯を売っていた。バケツ一杯のお湯を注文すると、台所の厨房で薪を焼べて大きな鍋で水を沸かしてくれた。子ども達が川から担いで運んでくれた貴重な水だ。それをバケツに移して、畳半畳くらいのシャワールーム(といってもシャワーはない)で大切に使うのだ。

蛇口を捻れば水が出るのが当たり前で育った私は、この手間のかかった一杯のバケツのお湯と、手間をかけてくれた人たちに感謝しかなかった。大事に大事に少しずつ使えば、バケツ一杯のお湯でも髪の毛と身体を洗えるものだとは、その時初めて知った。

普段、私が当たり前に使っていたもの・・シャワーやガスコンロ、電気や車などがどれだけ便利なものか、そしていかに自分が感謝しないで当たり前だと思っていたかをすこし恥ずかしく思った。

物質的にはたくさんを所有しているのに、それを維持するために必死になっていて、いくら手に入れてもまだ足りなくてもっともっとと求め続ける日本人の方がよほど貧しいではないか。

ネパールの人々は確かに持ち物も少ないし現金収入だってそれほどなさそうだった。日本人からしたら便利な暮らしとは程遠い。だが、子ども達の瞳は澄んでいて、大人たちの笑顔も飾り気がなくてピュアに感じた。老子の言う「足るを知るものは富む」を地で行っているようなネパールの人々のことを、私は正直羨ましいと感じた。

豊さって何だろう、そんな問いを投げかけてくれたのがネパールの旅だった。

こうやって久しぶりにネパールの旅を振り返っていたら、あのピンと張った朝の空気の冷たさと匂いを思い出した。

ある朝、目が覚めて宿の外に出ると、朝靄の向こう側には神々しいアンナプルナがそびえていた。突然私はなぜか全てが赦されたような気持ちになり、体の奥からマグマのように感謝が溢れてきたのだった。

私は何か大きな存在に生かされているのだ、と身体が感じた瞬間だった。

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