見出し画像

"英国ポップ音楽の正統派"    Paul Wellerさん 好きな曲10選+α

〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜

正統派
《始祖の教義や学説などを最も正しく継承していると称している流派の呼び名》

英国ポップ音楽(UKロック)の場合__
ビートルズを始祖とするならば
その影響を最も受け継いできたアーティストは
ポール・ウェラーであると言っても
過言ではありません


ポール・ウェラーを初めて知ったのは
およそ40年前になります。

80sブリティッシュ・ポップ隆盛の時代
当時はスタイル・カウンシルとして
《通称:スタカン》絶大な人気がありました。

英国ポップ音楽の歴史を辿りながら
ポール・ウェラーの半生と
彼の作品に触れ合って行けたらと思います。

プロローグ:スウィンギング・ロンドン

"さらば青春の光"

モッズの青春群像劇を描く
カルト映画

ロンドン郊外のサリー州ウォキング出身の
ポール・ウェラー(以下、ポール)は
少年の頃はビートルマニアであり
スクラップ帳を何冊も作るほどの
熱中ぶりであったと言われてます。

ビートルズ《The Beatles》出現以降
ポップ音楽の潮流はガラリと変化しました。

ザ・ビートルズ


ビートルズを筆頭とした
60年代英国のポップ・シーンは
スウィンギング・ロンドンと呼ばれており
若者世代の文化が華を開きます。

ポールは好んでキンクスやザ・フー
そしてスモール・フェイセズといった
音楽アーティストたちを敬愛しており
流行に左右されないクールなものを追求する
"モッズ"の生き方に大きな影響を受けて
彼自身のアイデンティティを確立し
人格を育んでいきました。

70年代になると
音楽シーンを牽引していたビートルズが解散
その後の英国の音楽シーンの表舞台では
Led Zepplin などのヘヴィーな様式美や
高度なアドリブ演奏のプログレ・バンドが
より芸術的なものへと音楽性をシフトさせて
競い合うように高尚な表現や円熟味を増して
もてはやされる傾向にありました。

その裏舞台では
若者たちの沸々とした情熱の矛先は
パブ・ロック(プロトパンク)に派生し
アンダーグラウンドなサブ・カルチャー文化の
いしずえを形成していきます。

ポールはこの頃には既に
ビートルズのカヴァーなどをする
パーティー・バンドを組んでいます。

その時に出会ったバンドメンバーが
後にザ・ジャムを構成することになる
ブルース・フォクストン(B)
リック・バックラー(Dr)
でした。

1976年になると
英国の音楽シーンに突如として
セックス・ピストルズが登場します。

セックス・ピストルズ

彼らの出現は今までの既成概念を覆し
本能の赴くまゝに英国各地のライブ会場で
傍若無人な表現を繰り広げるのでした。

しかし、英国の怒れる若者たちは彼らに熱狂し
演奏技術云々よりも初期衝動としての音楽__
パンク・ムーヴメントを巻き起こします。

ポールにとっては
それはあまりにも衝撃的な出来事でした。

彼自身もこのムーヴメントに身を投じ
バンドはモータウンやR&Bなどを
高速で演奏するスタイルに変化していきます。





1.The Jam 時代

結成《 In the City 》

マネージャーである父ジョン・ウェラーは
息子たちのバンドを売り込むべく
レコード会社に奔走していました。

大手レコード会社であるEMIとA&Mは
ピストルズの過激な言動を良しとせず
契約解除に至りましたが
ピストルズは
新進気鋭のレコード会社Virginと契約を結び
空前のパンク・ムーヴメントの立役者として
皮肉にも大成功を収めるのでした。

この潮流にあやかって大手のCBSに
ザ・ジャムの売り込みを掛けたところ
「既にクラッシュと契約を済ませた。」と
断られてしまったのでした。

父ジョンはこの潮流に乗り遅れまいと
なんとかポリドールとの契約に成功し
晴れてザ・ジャムは
メジャー・デビューを果たすのでした。

デビュー曲"In the City"
細身のダークスーツにナロータイ姿を
スタイリッシュに着こなして
英国人らしさを前面にアピールし
ポールの端正なルックスも相まって
ザ・ジャムは一躍人気に火が付いて
パンク・バンドとしての地位を確立します。

「息子の成功を後押しすることが出来た。」
と父ジョンは述懐しています。

ポールにとって父親ジョンの存在は
大きな精神的支柱になっていたと思います。

① In the City(1977)






パンクの終焉《 Down in the Tube Station at Midnight 》

ザ・ジャムはパンク・ムーヴメントの中で
一際スタイリッシュで異彩を放つ存在でした。
しかし人気が高まるにつれ
批判をする者も少なくはなかったのです。

彼が信条としていたモッズ・スタイルは
一部の心無いパンクスから「古臭い」と
揶揄の対象の標的となりました。

ポール・ウェラーを紹介する
当時のライナーノーツ

ポール・ウェラーは
「I'm not a Nostalgic ! 」
《俺は懐古主義者なんかじゃねぇ!》
と殴り書きをした看板を身に着けて
パブに飲みに行った。変な野郎だ。

しかし、パンク・ムーヴメントの熱は次第に
冷めていきます。

音楽的に未熟な聞くに堪えない作品も多く
パンクは単なるファッションの一部
として
その情熱attitudeが見放されてしまいます。

音楽性のふるいに残った面々のみが
音楽業界に生き残っていくのでした。

この時期、ポールは苦しみの時にありました。

彼は都会の喧騒やマスコミから遠く離れて
イングランドの片田舎で静養に努めて
「商業的な成功を収めないと名声が失われる。」
という事実に対して
ポールは心の中で内省的に戦う日々を過ごし
等身大の自分自身を見つめ直すのでした。

ポールは音楽こそが自身の拠り所であり
音楽に対して真面目に向き合うことこそが
聴衆に対する彼自身が出した答えでした。

②Down in the Tube Station at Midnight(1978年)






初の全英No.1《 Going Underground 》

当時、音楽を聴く媒体としては
レコード盤が主流でした。
レコード盤は裏表があり、A面がシングル曲
B面はカップリング曲となります。

レコードの売り上げ枚数によって
チャートの順位は大抵の場合は
シングル曲の名称で発表されます。

ザ・ジャムはサイケデリック色のある
"The Dream of Children"を
新しいシングルA面としてリリースするはずが
レコード会社がプレスの段階で両A面として
間違ったラベル印刷をしてしまいました。

ところが元はB面扱いの"Going 〜 "の方が
アップテンポの軽快なリズムで人気が広がり
ラジオ局で頻繁にオンエアされこともあって
初の全英チャート1位を獲得したのでした。

③Going Underground(1980年)






快進撃〜そして解散へ《Town called Malice 》

ザ・ジャムは破竹の勢いで
スターダムへの階段を駆け上がります。

ポール曰く__
「音楽とは元来、
モータウンのライブのように楽しくて
華やかなステージを目指して、
よりリスナーの心情に寄り添うべきだ。」

サウンド面でも大胆な変化として
ホーン・セクションを導入します。

そういった実直な努力を続けて
音楽誌"New Musical Express"における
リーダーズ・ポール(ファンの人気投票)では
最も好きなバンドとして1位を獲得するなど
ザ・ジャムは英国内で絶大な支持を得ました。

しかしながら、名実共にNo.1グループとして
彼らの選んだ道は解散でした。

「3人でやれることは全て、
音楽的にも商業的にも、やり尽くしたと思う。
これまでに得たことが
何かの糧になればと思っている。
そして何より、他の多くのバンドのように
老いぼれてみっともない真似を晒すことは
絶対にしたくないと思っているんだ。」

ザ・ジャムのラスト・ステージは
モッズの聖地ブライトンで行なわれました。
人気絶頂の最中に多くのファンに惜しまれて
ザ・ジャムとして熱く駆け抜けた6年間を
劇的に華々しく自ら終止符を打ちました。

④Town called Malice(1982年)




2.The Style Council 時代

新しい扉《 The Whole Point of No Return 》

強烈なビートや歪んだギター音は封印し
ファースト・アルバム"Cafe Bleu"で魅せる
音楽アプローチはまるでフランス映画のように
アルバム全編を優雅に美しい情緒を溢れてさせ
新しい境地に辿り着いたと思います。

どこかアンビエントな響きを持つ
クリアーで澄んだ音のギターの弾き語りが
胸を打ちます。


⑤The Whole Point of No Return(1984年)






華麗なる変貌《 My ever Changing Moods 》

盟友ミック・タルボットと共に
楽曲作りに没頭するポール

その一挙手一投足に注目され続けた
ザ・ジャム時代のプレッシャーから解放され
この頃のポールは本当の意味で自由であり
ありのまゝの感性が赴くところを
楽曲に投影していたように思います。

ミックのピアノをフィーチャーしつゝ
シンプルながらも楽曲の魅力を引き出す
必要最小限のスタイル__
この見事なまでのイメージの変化は
新しいファン層(特に女性)を
獲得していったように思います。


⑥My Ever Changing Moods(1984年)






レコード会社との決裂《 Shout to the Top 》

ブリティッシュ・ロック全盛期は
ショー・ビジネスの新たな媒体として
MTVなどの映像化されたコンテンツが
音楽に求められる環境が変化していきます。

楽曲のみならずアーティストはこぞって
斬新なプロモーション・ビデオを制作し
リリースする商業ロックの時代であります。

スタイル・カウンシルは1stアルバムで見せた
アヴァンギャルドなサウンド・テイストでなく
2ndアルバムはモータウンのようなポップ性を
前面に押し出し全英No.1を獲得しました。

⑦Shout to the Top(1985)


それ以降、彼らの音楽的探究心が肥大し
メンバーとの不和が生じます。

彼らの作品がヒット・チャートから凋落し
やがて批評家の否定的な意見もあり
6thアルバム"Modernism a New Decade"は
ポリドールが商業的に回収出来ないと判断し
リリースを拒否しました。

絶頂の内にファンに惜しまれつゝ解散した
ザ・ジャムの鮮やかな引き際と違い

スタカンは失意の内に自然消滅すると言う
対照的な終わりを迎えるのでした。

MTV時代は見た目の派手さやダンスなど交え
ショー・ビジネスを重視するご時世となり
ポール自身がそうであるように
音楽に向き合う実直さが持ち味であるのに
スタカンの音楽職人的なスタイルは
どうにも時代がそぐわなかったと思うのが
率直な見解です。





3.ソロ時代

アウェーでの再起《 Into Tomorrow 》

イギリス本国の音楽シーンから見放されて
精神的にも傷つくことが多かったポールを
受け入れたのは日本のファン達でした。

特にスタカン時代のポールを応援していた
日本でのファンが根強く居てくれたことで
ポールは一大決心をするのです。

日本に活動拠点を移し
今まででは考えられなかった
小さなライブ・ハウスをドサ周りする . . .
まさに過去の栄光をかなぐり捨てて
現在出来る最大限の努力と情熱を
ふたたび音楽に向き合って集中させるポール

スタカン時代から一変して
力強い骨太のロックを聴かせてくれます。

そしてポールは
ソロ1stアルバム"Paul Weller"を
なんと日本のレコード・レーベルである
ポニー・キャニオンからリリースしたのです。

⑧Into Tomorrow(1992年)

ポールは日本で復調の兆しを見せると
2ndアルバムの"Wild Wood"は
イギリス本国のレコード・レーベル
『 Go discs ! 』と契約を結びます。

自身のルーツであるR&Bに原点回帰し
ポールは日本でスタートさせたソロキャリアを
ふたたび英国の音楽シーンに復帰を果たすべく
偉大な一歩を踏み出したのです。





不死鳥の如く《 You Do Something to me 》

3rdアルバムの"Stanley Road"は
約一年もの間、全英チャーTOP10圏内に
チャートインをし続ける快挙を達成し、
彼の全キャリアを通じて最大のヒットとなる。

ポールは己と実直に向き合い
心の奥深いところまで見つめ直すことで
不死鳥のように甦っては
名作を生み出すことの出来る
稀有な才能のあるアーティストであることを
自ら証明してみせるのでした。

⑨You Do Something to Me(1995)






ブリット・ポップの最前線で《 Blink and You'll Miss it 》


ポールが英国ポップ・シーンへ復活した同時期
アメリカでは『ニルヴァーナ』を筆頭とした
グランジ旋風が吹き荒れました。

ショー・ビジネス化した音楽を駆逐するように
かつてのパンク・ムーヴメントの情熱atitude
思い起こさせたかのようでした。

純粋に音楽に向き合う姿勢は
英国の若者にも飛び火して
90年代のブリット・ポップを生み出し
『ブラー』や『オアシス』と言った
若いアーティストを輩出します。

ブラー
オアシス


ポールはこういった若いアーティスト達から
尊敬の念を集めており
英ポップ界の兄貴分として慕われて
アルバム制作ごとに若いアーティストと交流し
今なおポップ・シーンの最前線で
現役を貫いて切磋琢磨しているのです。

⑩Blink and You'll Miss it(2006)






ポール・ウェラーはなぜアメリカで売れないのか?《 Village 》

イギリス出身のアーティストで
幸運にもヒットに恵まれたのならば__

そのような機会を得られるアーティストは
ほんの一握りではあるものの
ポールほどの実力と実績があれば
より多くのリスナーに自分の作品を届けようと
その機会を拡大するために
イギリス本国のみならず
同じ英語圏である全米の音楽マーケットで
トップを目指して世界的なセールスに
結びつけたいと考えるのは当然と思います。

しかしながら不思議なことにポールの場合は
イギリス本土での絶大な人気とは裏腹に
アメリカでは泣かず飛ばずです。

このような極端に英米で人気に違いがある
アーティストは他に居ません。

スタカン時代に一度
ビルボードTOP30に食い込んだくらいで
彼のキャリアを通じてみても大半の作品が
アメリカのヒット・チャートで圏外に終わり
現在のところ全米でのヒット曲はありません。

小生の分析では

ルックスが中性的な美男子であり
マッチョではなく華奢であること。

愛想笑いなどは無縁でクールな澄まし顔であること。

政治批判の歌詞を生真面目に歌う . . . 。

これはアメリカ人の視点から見れば
「カッコ良すぎ」=「イケ好かない奴」
に映るのでしょうか?

しかし、アメリカで売れることが
全てではありません。

匂い立つくらいの英国人気質の色濃さが
これまたポールの魅力であり
日本を再起の地として選んでくれたのも
同じ島国根性という点で相通じる感性が
あったと思うと嬉しくなります。

+α Village(2020年)






エピローグ:モッド・ファーザー


モッズ・スタイルに憧れた少年の頃から
音楽と向き合って栄光と挫折を繰り返し
2020年代になった今もなお
直近にリリースしたアルバムが2作品連続で
全英チャートNo.1を獲得しています。

ポール・ウェラーはその生涯を以て
ビートルズから脈々と続く
正統派の英国ポップ音楽の情熱atitude
現代に伝え続けています。

イギリスの若者は親しみを込めて
彼のことをModfatherモッド・ファーザーと呼びます。

まさに現代を生きるレジェンドなのです。

〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜

長文お読み頂きありがとうございました。

この記事が参加している募集

スキしてみて

ほろ酔い文学

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?