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好きの狭間にいつもある。


多分、僕は服を創ることも着ることも見ることさえも、ファッションを好きでたのしんでいるニンゲンの一人だと思っています。
しかし、こんな僕でもファッションに抱く疑問が日々大きくなっていくので、今回はそんなことを書いてみようと思います。


…………


ご存知のとおり、いまや服を創るブランドが世界各地であまりにも多いと思いませんか?
正直僕は多すぎると思っています。


既に飽和状態のファッション業界は今も変わらず一定周期のサイクルを律儀に守りながら新しいものをつくっては余らせ、廃棄するという負の循環をいつまでも続けている。
(廃棄をさせない法律をつくろうとしているフランスや廃棄をしないと決めたバーバーリーというブランドもあります)

最後にはいく場を失われていく服。

それが現実。

奇しくも僕たち自身がそれに多少なりとも加担していてその現実を生み出してしまっていることは、悲しくも苦しい。

服が発表されるサイクルが短すぎる故、時間をかけて創ることが許されず、他ブランドを模倣することも厭わなければ、売り出されてからセールにかけられるまでの時期の短さ、短命な服はそれでも次々創られていく。

どんなハイブランドの服ですらそうな訳で、二次流通やファミリーセールでは、ハンガーラックに同じモノがぎゅうぎゅうに押し込められ、店頭で見ていた感覚とは異なる感覚で服を見つめることになる。あのキラキラした価値観は何だったのか。

ファストファッションの服は安価で誰もが手に取れる利点はあるものの、不要になれば簡単に捨てられてしまう問題もある。この問題は『どうせ。』からくる僕らの無意識の感覚がやってしまうことだと考えている。
(リサイクルや寄付を目的に回収しているファストファッションブランドだってもちろんありますが、つくって捨てられる数はあまりにも多いです)

…………


そして、どこかの有名デザイナーたちから模倣されたデザインや、流行に右倣え的に発表されるモノ、モノ、モノ。

ファストファッションであれ、名のあるブランドでさえ同じ事をやっているようにしか見えなくなってきている世界の平らなファッションシーン。

それじゃいけないと、奇抜で普段着れないようなデザインやスタイルを生み出すブランドの登場。

それが現代のファッションだから仕方ない。
といって片づけてしまっていいはずがない。


僕はこの事実を目の当たりにすればするほど、モノつくりに携わる身としては悲しくも苦しくなるし、この循環の意味や創っている意義がわからなくなってしまうことがたびたびある。
このセカイから距離を置こうと考えることも今までに何度もあったし、今もうっすら考えている。


………


別の視点から見てみたときはどうなのか?
これにはものすごく葛藤が付いて回る。。。


矛盾するかもしれないけれど、ファストファッションや二次流通などが決して絶対悪とか全く意味のないものとは思っていない自分がいるのも事実で、どういう形であれファッションというカテゴリーを裾野まで大きく広げた功績も間違いなくあるとおもっているからで、

もちろん僕自身も恩恵に授かったことが幾度となくある。


ファッションだけにお金をかけられない世代や、ファッションに今まで興味を持たなかった世代の大勢の人たちに、気軽にファッションを楽しむことの良さを提供することができたわけだから、その面からしたら大きなことだと思う。

たとえば、UNIQLOのように素材品質や製品のクオリティーも優れていて、多くの服種のなかからサイズさえも選べる自由があれば、それ以上のお金をかけてそれ以上を服に望むことが馬鹿馬鹿しく感じてしまうことは当然なはずだし、ファッションシーンで名を馳せるデザイナーとのコラボレーションの服までもがUNIQLO価格で買えてしまえるわけだから消費者からしたら満足いかないわけがない。


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例外はあると思うけれど、いまや名のあるブランドだからというただ一つの理由だけで何十万円もする服を買うのだろうか?

僕はきっとそれだけが理由で買われることは少なくなっていくのではないかと感じている。


これからはきっと、ヒトの感情を揺さぶるような、ヒトにしっかりと寄り添うことができる、服を創るストーリーや背景が見えるそういう類の色気を感じることができる服、そういう服がブランドの看板や価格という意識を超えていくことができるのではないだろうか。



どちらにせよ、
ハイブランドなら、ある不特定少数のヒトのための少ない需要。
ファストファッションなら、ある不特定多数のヒトのための多くの需要。
結局どんな条件だろうと、需要というその数を遥かに超えてくる供給とがマッチするはずなんてないのだ。


当たり前と思っていたコロナ前の世界では、急速的に進化しすぎたテクノロジーによって、モノの価値観がヒトの感情に到達する距離は逆に遠のき麻痺してきた、知らないことは何でもインターネットを通じて見れるようなってしまい、あたかも自分が体験、経験した気分になれる。
そして、ハードルは下がっていく。

たとえば、今の時代誰でもデザイナーになれてしまうような。

…………

紙媒体で例えるなら、
紙を触った時、手に伝わる紙の感覚やインクの匂いを感じられなくなったことに近いと思う。
本来モノから得られる感覚がどこか薄らいでいってしまったような。
ファッションのセカイだけでなく、世界の凹凸すらもだんだんと平らになってしまったような気がする。


もしコロナ後の世界で僕たちがファッションだけではなく、創作される全てのモノをもっと肯定できる新しいカタチを見つけられて、新しい価値観を見い出し共有できたら、ヒトはいまよりももっとクリエイトされたモノやコトに興味を持ってくれるんじゃないか、手に取り触れてモノのストーリーや背景を想像してくれるのではないか。
なんなら、ブランドという看板を見るよりも創り手の想いを直に聞きたくなるのではないか。

そして、数多あるファッションが辿ってきた過去の不要なしきたりや呪縛、不要なブランドなども含めて淘汰されていくことになるのかもしれない。


僕たちの新しい暮らしや地球環境のことを考えると、今後の世界はコロナ前と同じことが通用しなくなるような社会の価値観の変化もあるだろうと僕は思っている。
というか、そうなることをどこかで期待している。


だから僕自身も自分がやれることを通じてそんな世界に少しでも貢献できるようなことができたらいいなとおもう。

僕がもしもこの先もう少しこのセカイに身を置いていられるなら、

簡単に捨てられることのない、替えのきかないかけがえのないモノつくりを、世界のだれかに寄り添うことをイメージしながら、自分なりのマイスローペースではじめていけたらといいなと思う。


ファッションのよりよい未来のために、ファッションに携わる人たちがもっとファッションのセカイを大切にできるようになったらうれしいな。



長々とご清聴ありがとうございました。




こんなご時世ですがみなさんにとってステキな日になりますように。



タカハシカズキ

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