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自分の人生を再設計するためのガイド:愚かさを超えて自省し、保護と指図のバランスを学ぶ、国と国民の関係からの教訓【学問のすすめ2.0:十四編】福沢諭吉から学ぶ

十四編
心事の棚卸し
 人の世を渡る有様を見るに、心に思うよりも案外に悪をなし、心に思うよりも案外に愚を働き、心に企つるよりも案外に功を成さざるものなり。いかなる悪人にても、生涯の間勉強して悪事のみをなさんと思う者はなけれども、物に当たり事に接して、ふと悪念を生じ、わが身みずから悪と知りながら、いろいろに身勝手なる説をつけて、しいてみずから慰むる者あり。またあるいは物事に当たりて行なうときはけっしてこれを悪事と思わず、毫《ごう》も心に恥ずるところなきのみならず、一心一向に善《よ》きことと信じて、他人の異見などあれば、かえってこれを怒り、これを怨《うら》むほどにありしことにても、年月を経て後に考うれば、大いにわが不行届きにて心に恥じ入ることあり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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心の中の整理

 人々がこの世を生きる様子を観察すると、自分が考えるよりも予想外に悪行を犯し、自分が考えるよりも予想外に愚かなことをし、自分が計画するよりも予想外に成功しないことが多い。どんなに悪い人であっても、一生懸命に悪だけを追求すると決意する者はいない。しかし、状況や出来事に直面したとき、突然悪い考えが浮かび、自分自身がそれが悪であると認識しながらも、さまざまな都合の良い理由を見つけて、自分を慰める者がいる。また、何かを行う際にそれを悪とは思わず、少しも恥じることなく、むしろそれを善と信じて行動し、他人の異なる意見があれば、それに怒ったり恨んだりすることもある。しかし、時間が経って後から振り返ると、自分の行いが不適切であったことを深く恥じることがある。

 また人の性に智愚強弱の別ありといえども、みずから禽獣《きんじゅう》の智恵にも叶《かな》わぬと思う者はあるべからず。世の中にあるさまざまの仕事を見分けて、この事なれば自分の手にも叶うことと思い、自分相応にこれを引き受くることなれども、その事を行なうの間に、思いのほかに失策多くして最初の目的を誤り、世間にも笑われ、自分にも後悔すること多し。世に功業を企てて誤る者を傍観すれば、実に捧腹《ほうふく》にも堪えざるほどの愚を働きたるように見ゆれども、そのこれを企てたる人は必ずしもさまで愚なるにあらず、よくその情実を尋ぬれば、また尤《もっと》もなる次第あるものなり。畢竟世の事変は活物《いきもの》にて容易にその機変を前知すべからず。これがために智者といえども案外に愚を働くもの多し。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 人々には賢い者や愚かな者、強い者や弱い者がいると言われるけれど、自分が動物よりも劣っていると感じるべきではない。世の中のさまざまなタスクを見て、これなら自分にもできると感じ、それを自分のレベルに合わせて受け入れることはある。しかし、そのタスクを進める過程で、予想外の失敗をして、初めの目的を見失い、人々に笑われ、自分自身も後悔することが多い。世の中で大きなプロジェクトを立ち上げて失敗する人を見ると、その愚かさは笑ってしまうほどだが、そのプロジェクトを始めた人が必ずしも愚かではない。その背景や真意を深く探ると、納得できる理由があることが多い。結局、世の中の出来事は予測が難しく、どんな賢い人であっても、思わぬ失敗をすることが多いのだ。

 また人の企ては常に大なるものにて、事の難易大小と時日の長短とを比較することはなはだ難《かた》し。フランキリン言えることあり、「十分と思いし時も事に当たれば必ず足らざるを覚ゆるものなり」と。この言まことに然り。大工に普請を言いつけ、仕立屋に衣服を注文して、十に八、九は必ずその日限を誤らざる者なし。こは大工・仕立屋のことさらに企てたる不埒《ふらち》にあらず。そのはじめに仕事と時日とを精密に比較せざりしより、はからずも違約に立ち至りたるのみ。さて世間の人は大工・仕立屋に向かいて違約を責むることは珍しからず、これを責むるにまた理屈なきにあらず。大工・仕立屋は常に恐れ入り、旦那はよく道理のわかりたる人物のように見ゆれども、その旦那なる者がみずから自分の請け合いたる仕事につき、はたして日限のとおりに成したることあるや。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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  人々の計画は常に大きなものであるが、その難しさや期間を正確に見積もることは非常に難しい。フランクリンは言っていた、「十分だと思った時間も、実際に取り組むと足りないことが多い」と。この言葉は真実である。建築家に家の建設を依頼したり、デザイナーに服をオーダーしたりすると、ほとんどの場合、納期を守るのは難しい。これは建築家やデザイナーが不誠実であるわけではない。最初の段階で、仕事の量と所要時間を正確に見積もらなかったため、結果として納期を守れなくなるのである。多くの人々は、建築家やデザイナーを非難することは珍しくない。そして、その非難には理由がある。建築家やデザイナーは常に謝罪しているが、依頼主は理解があると思われがちである。しかし、その依頼主自身が自らの仕事を納期通りに完了させることができるのだろうか。

 田舎《いなか》の書生、国を出《い》ずるときは、難苦を嘗《な》めて三年のうちに成業とみずから期したる者、よくその心の約束を践《ふ》みたるや。無理な才覚をして渇望したる原書を求め、三ヵ月の間にこれを読み終わらんと約したる者、はたしてよくその約のごとくしたるや。有志の士君子「某《それがし》が政府に出ずれば、この事務もかくのごとく処し、かの改革もかくのごとく処し、半年の間に政府の面目を改むべし」とて、再三建白のうえようやく本望を達して出仕の後、はたしてその前日の心事に背《そむ》かざるや。貧書生が「われに万両の金あれば、明日より日本国中の門並《かどな》みに学校を設けて家に不学の輩なからしめん」と言う者を、今日良縁によりて三井・鴻ノ池の養子たらしむることあらば、はたしてその言のごとくなるべきや。この類の夢想を計れば枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。みな事の難易と時の長短とを比較せずして、時を計ること寛に過ぎ、事を視ること易《い》に過ぎたる罪なり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 田舎の学生が都会へ出るとき、3年で成功すると自分で決めた者は、本当にその約束を守れたのだろうか。難解な書籍を手に入れたくて、3ヵ月で読み終えると決めた者は、本当にその通りにできたのだろうか。熱心な志士が「私が政府に参加すれば、この業務はこう処理し、あの改革はこう進め、半年で政府のイメージを変える」と言い、実際に政府に参加した後、本当にその約束を守れたのだろうか。貧しい学生が「私に大金があれば、明日から日本中に学校を作り、誰もが教育を受けられるようにする」と言ったとき、もし彼が大企業の養子となったら、本当にその言葉通りに行動するのだろうか。このような夢想は数えきれない。多くの人は、事の難しさや時間の長さを考慮せず、時間の見積もりを甘く、事の見通しを楽観的に過ぎるのが問題である。

 また世間に事を企つる人の言を聞くに、「生涯のうち」または「十年のうちにこれを成す」と言う者はもっとも多く、「三年のうち」、「一年のうちに」と言う者はやや少なく、「一月のうち」、あるいは「今日この事を企てて今まさにこれを行なう」と言う者はほとんどまれにして、「十年前に企てたることを今すでに成したり」と言うがごときは余輩いまだその人を見ず。かくのごとく、期限の長き未来を言うときにはたいそうなることを企つるようなれども、その期限ようやく近くして今月今日と迫るに従いて、明らかにその企ての次第を述ぶること能わざるは、畢竟ことを企つるに当たりて時日の長短を勘定に入れざるより生ずる不都合なり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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  さらに、世の中で何かを計画する人々の言葉を耳にすると、「生涯の間に」や「10年の間にこれを達成する」と宣言する者は非常に多い。一方で、「3年の間に」や「1年の間に」と言う者は少なめで、「1ヶ月の間に」や「今日この計画を立てて、すぐに実行する」と言う者は非常に稀だ。そして、「10年前に計画したことを今や達成した」と言うような人は、私自身、まだ出会ったことがない。このように、遠い未来を期限として設定するとき、人々は大きなことを計画する傾向がある。しかし、その期限が迫ってくると、具体的に計画の詳細を説明することが難しくなる。結局のところ、計画を立てる際に期限の長さや短さを考慮せずに進めることが、問題を引き起こす原因である。

 右所論のごとく、人生の有様は徳義のことにつきても思いのほかに悪事をなし、智恵のことにつきても思いのほかに愚を働き、思いのほかに事業を遂げざるものなり。この不都合を防ぐの方便はさまざまなれども、今ここに人のあまり心づかざる一ヵ条あり。その箇条とはなんぞや。事業の成否得失につき、ときどき自分の胸中に差引きの勘定を立つることなり。商売にて言えば棚卸しの総勘定のごときものこれなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 前述の通り、人生では徳や義に関して意外と非道な行動をとることがあり、知恵に関しても意外と愚かな行動をすることがある。そして、意外と計画や目的を達成できないことも多い。このような問題を避ける方法は多々あるが、ここで特に多くの人が注意を払わない一つのポイントがある。それは何かと言うと、自分の行動や結果について、時々自分自身で検討や評価をすることである。ビジネスの言葉で言えば、定期的な在庫の確認や総括のようなものである。

 およそ商売において、最初より損亡《そんもう》を企つる者あるべからず。まず自分の才力と元金とを顧み、世間の景気を察して事を始め、千状万態の変に応じて、あるいは当たりあるいは外《はず》れ、この仕入れに損を蒙《こうむ》りかの売捌《うりさば》きに益を取り、一年または一ヵ月の終わりに総勘定をなすときは、あるいは見込みのとおりに行なわれたることもあり、あるいは大いに相違したることもあり、またあるいは売買繁劇の際にこの品につきては必ず益あることなりと思いしものも、棚卸しにできたる損益平均の表を見れば案に相違して損亡なることあり。あるいは仕入れのときは品物不足と思いしものも、棚卸しのときに残品を見れば、売捌きに案外の時日を費やして、その仕入れかえって多きに過ぎたるものもあり。ゆえに商売に一大緊要なるは平日の帳合いを精密にして、棚卸しの期を誤らざるの一事なり。

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 商業の世界で、最初から損失を覚悟する者はいるべきではない。まず、自分の能力と資本を評価し、市場の動向を見極めて事業を開始する。さまざまな状況の変化に対応し、時には成功し、時には失敗する。ある取引で損失を被ることもあれば、別の取引で利益を上げることもある。年末や月末の決算時には、予想通りの結果が出ることもあれば、大きく外れることもある。一見、利益が出ると思われた商品も、在庫の確認を行うと、実際には損失が出ていることもある。また、仕入れ時には商品が不足していると感じることもあれば、在庫を確認すると、実際には売れ残りが多く、仕入れが過剰であったこともある。したがって、商業活動で最も重要なのは、日常の帳簿を正確に管理し、在庫確認のタイミングを逃さないことである。

 他の人事もまたかくのごとし。人間生々の商売は十歳前後人心のできし時よりはじめたるものなれば、平生、智徳事業の帳合いを精密にして、勉めて損亡を引き受けざるように心がけざるべからず。「過ぐる十年の間には何を損し何を益したるや。現今はなんらの商売をなしてその繁盛の有様はいかなるや。今は何品を仕入れていずれの時いずれのところに売り捌くつもりなるや。年来心の店の取締りは行き届きて遊冶懶惰《ゆうやらんだ》など名のる召使のために穴を明けられたることはなきや。来年も同様の商売にて慥《たし》かなる見込みあるべきや。もはや別に智徳を益すべき工夫もなきや」と、諸帳面を点検して棚卸しの総勘定をなすことあらば、過去現在、身の行状につき必ず不都合なることも多かるべし。その一、二を挙ぐれば、「貧は士の常、尽忠報国」などとて、みだりに百姓の米を食い潰して得意の色をなし、今日に至りて事実に困る者は、舶来の小銃あるを知らずして刀剣を仕入れ、一時の利を得て、残品に後悔するがごとし。和漢の古書のみを研究して西洋日新の学を顧みず、古《いにしえ》を信じて疑わざりし者は、過ぎたる夏の景気を忘れずして冬の差入りに蚊帷《かや》を買い込むがごとし。青年の書生いまだ学問も熟せずしてにわかに小官を求め、一生の間、等外に徘徊《はいかい》するは、半ば仕立てたる衣服を質に入れて流すがごとし。地理、歴史の初歩をも知らず、日用の手紙を書くこともむずかしくして、みだりに高尚の書を読まんとし、開巻五、六葉を見てまた他の書を求むるは、元手なしに商売をはじめて日に業を変ずるがごとし、和漢洋の書を読めども天下国家の形勢を知らず一身一家の生計にも苦しむ者は、算盤《そろばん》を持たずして万屋《よろずや》の商売をなすがごとし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 他の事柄も同じようなものだ。人の生涯の仕事や取り組みは、10歳前後、人としての性格が形成される頃から始まる。だから、日常の知恵や徳の取り組みをきちんと管理し、損失を避けるように心がけるべきだ。「過去10年で何を失い、何を得たのか。現在、どんな仕事をしていて、その状況はどうか。今、どんな商品を仕入れて、いつ、どこで販売する予定なのか。年間を通して、自分の心の管理はしっかりと行われており、怠惰や遊び心で問題が生じていないか。来年も同じような仕事で成功する見込みはあるのか。さらに、知恵や徳を増やす方法はないのか」と、自分の行動や計画を見直すことは、過去や現在の行動に不都合な点が多いだろう。例を挙げれば、「貧しさは士の常、尽くして国に報いる」と言いながら、軽々しく他人の米を食べて得意になり、現実に困っている者は、新しい銃を知らずに古い武器を仕入れ、一時的な利益を得て後で残った商品を後悔するようなものだ。古典のみを研究し、新しい西洋の学問を無視する者は、夏の暑さを忘れて冬に蚊帳を仕入れるようなものだ。学問が未熟な若者が急いで小さな役職を求め、一生を無駄に過ごすのは、半分しか完成していない服を質屋に入れるようなものだ。地理や歴史の基本も知らず、日常の手紙すら書けない者が、高尚な書物を読もうとし、数ページ読んでまた別の本を求めるのは、資金もなしにビジネスを始め、毎日業種を変えるようなものだ。多くの書物を読んでも、世界の状況を知らず、自分や家族の生計にも困っている者は、計算機も持たずに雑貨屋を営むようなものだ。

 天下を治むるを知りて身を修むるを知らざる者は、隣家の帳合いに助言して自家に盗賊の入るを知らざるがごとし。口に流行の日新を唱えて心に見るところなくわが一身の何ものたるをも考えざる者は、売品の名を知りて値段を知らざるもののごとし。これらの不都合は現に今の世に珍しからず。その原因は、ただ流れ渡りにこの世を渡りて、かつてその身の有様に注意することなく、生来今日に至るまでわが身は何事をなしたるや。今は何事をなせるや。今後は何事をなすべきや」と、みずからその身を点検せざるの罪なり。ゆえにいわく、商売の有様を明らかにして後日の見込みを定むるものは帳面の総勘定なり、一身の有様を明らかにして後日の方向を立つるものは智徳事業の棚卸しなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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  世界を管理しようとするが、自分自身を管理する方法を知らない者は、隣の家の経済をアドバイスしている間に、自分の家に泥棒が入るのを気づかない者に似ている。最新のトレンドを口にして、自分自身の価値や存在を考えずに生きる者は、商品の名前は知っているが、その価格を知らない者のようだ。このような問題は、現代の社会においても珍しくない。その原因は、ただ流されるままに生き、自分の状態や行動に注意を払わず、これまでの自分が何を成し遂げてきたのか、今何ができるのか、将来何をすべきかを自問自答しないことにある。だから、ビジネスの状態を明確にし、将来の展望を設定するものは、会計のようなものであり、自分自身の状態を明確にし、将来の方針を決めるものは、自己啓発や自己成長のための自己評価のようなものである。

世話の字の義
 世話の字に二つの意味あり、一は「保護」の義なり、一は「命令」の義なり。保護とは人の事につき、傍《かたわら》より番をして防ぎ護り、あるいはこれに財物を与え、あるいはこれがために時を費やし、その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。命令とは人のために考えて、その人の身に便利ならんと思うことを指図《さしず》し、不便利ならんと思うことには意見を加え、心の丈《たけ》を尽くして忠告することにて、これまた世話の義なり。
 右のごとく世話の字に、保護と指図と両様の義を備えて人の世話をするときは、真によき世話にて世の中は円《まる》く治まるべし。譬《たと》えば父母の子供におけるがごとく、衣食を与えて保護の世話をすれば、子供は父母の言うことを聞きて指図を受け、親子の間柄に不都合あることなし。また政府にては法律を設けて、国民の生命と面目と私有とを大切に取り扱い、一般の安全を謀《はか》りて保護の世話をなし、人民は政府の命令に従いて指図の世話に戻《もと》ることあらざれば、公私の間まるく治まるべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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世話という言葉の意味

 「世話」という言葉には二つの意味がある。一つは「保護」であり、もう一つは「指示やアドバイス」である。保護とは、他者のためにサポートを提供し、物資や時間を提供することで、その人が損失や恥を避けるようにサポートすることを指す。一方、指示やアドバイスとは、他者のために最善の行動や選択を考え、その人にアドバイスや指示をすることで、心からの忠告をすることを意味する。これもまた「世話」の意味の一部である。

 このように、「世話」には保護と指示の両方の意味が含まれており、真に良い世話をすることで、社会は円滑に機能するだろう。例えば、親が子供に食事や衣服を提供することで保護の役割を果たし、子供は親のアドバイスや指示を受け入れることで、親子関係はスムーズに進む。また、政府が法律を制定して国民の生命や財産を守ることで保護の役割を果たし、国民が政府の指示に従うことで、社会全体が円滑に機能するだろう。

 ゆえに保護と指図とは両《ふたつ》ながらその至るところをともにし、寸分も境界を誤るべからず。保護の至るところはすなわち指図の及ぶところなり。指図の及ぶところは必ず保護の至るところならざるを得ず。もし然らずしてこの二者の至り及ぶところの度を誤り、わずかに齟齬《そご》することあれば、たちまち不都合を生じて禍《わざわい》の原因となるべし。世間にその例少なからず。けだしその所以は、世の人々常に世話の字の義を誤りて、あるいは保護の意味に解し、あるいは指図の意味に解し、ただ一方にのみ偏して文字のまったき義を尽くすことなく、もって大なる間違いに及びたるなり。 譬えば父母の指図を聴かざる道楽息子へみだりに銭を与えて、その遊冶放蕩を逞しゅうせしむるは、保護の世話は行き届きて指図の世話は行なわれざるものなり。子供は謹慎勉強して父母の命に従うといえども、この子供に衣食をも十分に給せずして無学文盲の苦界に陥《おとしい》らしむるは、指図の世話のみをなして保護の世話を怠るものなり。甲は不孝にして乙は不慈なり。ともにこれを人間の悪事と言うべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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  したがって、サポートと指示は、その範囲が一致しており、その境界を誤ってはならない。サポートの範囲は、すなわち指示の範囲である。指示の範囲は、必ずサポートの範囲と一致しなければならない。もし、この二つの範囲が合致しない場合、少しでもずれが生じれば、すぐに問題が生じ、災いの原因となるだろう。世の中には、このような例が数多く存在する。その原因は、多くの人々が「世話」の意味を誤解しており、サポートの意味だけを取るか、指示の意味だけを取るか、片方に偏った解釈をして、真の意味を見落としているからである。
 例えば、親の指示を無視する放蕩息子に無闇にお金を与え、その浪費を助長するのは、サポートは行き届いているが、指示が欠けている。一方、子供が勉強に励み、親の言うことをきちんと守っているのに、その子供に十分な食事や衣服を提供しないのは、指示だけが行われ、サポートが欠けている。前者は不孝、後者は不慈である。どちらも、これは人間の不徳と言える行為である。

 古人の教えに「朋友に屡《しばしば》すれば疎《うとん》ぜらるる」とあり。そのわけは、「わが忠告をも用いざる朋友に向かいて余計なる深切を尽くし、その気前をも知らずして厚かましく意見をすれば、ついにはかえってあいそつかしとなりて、先の人に嫌われ、あるいは怨まれ、あるいは馬鹿にせられて、事実に益なきゆえ、大概に見計ろうてこちらから寄りつかぬようにすべし」との趣意なり。この趣意もすなわち指図の世話の行き届かぬところには保護の世話をなすべからずということなり。  また昔かたぎに、田舎の老人が旧《ふる》き本家の系図を持ち出して別家の内を掻《か》きまわし、あるいは銭もなき叔父さまが実家の姪《めい》を呼びつけてその家事を指図し、その薄情を責めその不行届きを咎め、はなはだしきに至りては、知らぬ祖父の遺言などとて姪の家の私有を奪い去らんとするがごときは、指図の世話は厚きに過ぎて保護の世話の痕跡もなきものなり。諺《ことわざ》にいわゆる「大きにお世話」とはこのことなり。

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 古の知恵には「友人と頻繁に関わりすぎると、距離が生まれる」という言葉がある。その意味は、自分のアドバイスを受け入れない友人に対して、余計に熱心に接し、その気配りを理解されないまま、厚かましくアドバイスをすると、最終的には相手に疎ましく思われ、嫌われるか、恨まれるか、または馬鹿にされる。結果的に、それは有益ではないので、適度に距離を保つべきだということだ。この考えは、必要以上に世話を焼かない方がいい、ということでもある。さらに昔の様子として、田舎の高齢者が家の家系図を持ち出して分家の中を干渉し、お金のない親戚が実家の姪を呼びつけて家事についての指示をし、その冷たさを非難し、行き届かない行動を責めるような行為、さらには知らない祖父の遺言などを理由に姪の家の財産を奪おうとするような行為は、過度に世話を焼きすぎて、実際のサポートの跡形もないものだ。俗にいう「大きなお節介」とはこのことを指している。

 また世に貧民救助とて、人物の良否を問わず、その貧乏の原因を尋ねず、ただ貧乏の有様を見て米銭を与うることあり。鰥寡《かんか》孤独、実に頼るところなき者へは救助も尤《もっと》もなれども、五升の御救米《おすくいまい》を貰うて三升は酒にして飲む者なきにあらず。禁酒の指図もできずしてみだりに米を与うるは、指図の行き届かずして保護の度を越えたるものなり。諺にいわゆる「大きに御苦労」とはこのことなり。英国などにても救窮の法に困却するはこの一条なりという。  この理を拡《おしひろ》めて一国の政治上に論ずれば、人民は租税を出だして政府の入用を給し、その世帯向きを保護するものなり。しかるに専制の政にて、人民の助言をば少しも用いず、またその助言を述ぶべき場所もなきは、これまた保護の一方は達して指図の路は塞《ふさ》がりたるものなり。人民の有様は大きに御苦労なりと言うべし。

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 また、現代には「貧困対策」として、人の性格や過去を問わず、貧困の原因を探ることなく、単に貧しい状態を見てお金や援助をすることがある。真に頼るところのない未亡人や孤独な人への支援はもっともだが、援助としてもらった米の中から、一部を酒に使う人も少なくない。酒を飲むことを禁じることなく、無闇に米を与えることは、対策が不十分で、援助が度を超えていると言える。言葉でいう「効果が薄い努力」とは、まさにこれを指す。英国などでも、貧困対策に問題があるのは、この点だと言われている。 この論点を国の政治の面で考えると、市民は税を払い、国の財政を支え、その生活を守るものである。しかし、独裁的な政治では、市民の意見をまったく取り入れず、その意見を述べる場もない。これは、援助はされても、適切な対策や指示がなされていないということである。市民の状態は、効果が薄い努力といえるだろう。

 この類を求めて例を挙ぐればいちいち計《かぞ》うるに遑《いとま》あらず。この「世話」の字義は経済論のもっとも大切なる箇条なれば、人間の渡世において、その職業の異同事柄の軽重にかかわらず、常にこれに注意せざるべからず。あるいはこの議論はまったく算盤《そろばん》ずくにて薄情なるに似たれども、薄くすべきところを無理に厚くせんとし、あるいはその実の薄きを顧みずしてその名を厚くせんとし、かえって人間の至情を害して世の交際を苦々《にがにが》しくするがごときは、名を買わんとして実を失うものと言うべし。

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 このような事柄について例を挙げる必要はない。この「世話」の意味は経済論において非常に重要なポイントである。そのため、人間が社会で生きる上で、職業の違いやその中の詳細に関係なく、常にこの点に注意する必要がある。確かに、この議論は完全に数字や計算に基づいて冷酷に思えるかもしれない。しかし、本来薄くすべきところを無理に厚くしたり、実際の価値が薄いものを名前だけで価値があるように見せたりすることは、人の感情を傷つけ、社会的な関係を悪化させる。このような行動は、名誉を追い求めて実際の価値を失う行為と言えるであろう。

 右のごとく議論は立てたれども、世人の誤解を恐れて念のためここに数言を付せん。修身道徳の教えにおいてはあるいは経済の法と相もとるがごときものあり。けだし一身の私徳は悉皆《しっかい》天下の経済にさし響くものにあらず、見ず知らずの乞食に銭を投与し、あるいは貧人の憐れむべき者を見れば、その人の来歴をも問わずして多少の財物を給することあり。そのこれを投与しこれを給するはすなわち保護の世話なれども、この保護は指図とともに行なわるるものにあらず、考えの領分を窮屈にしてただ経済上の公をもってこれを論ずれば不都合なるに似たれども、一身の私徳において恵与の心はもっとも貴ぶべく最も好《よ》みすべきものなり。譬《たと》えば天下に乞食を禁ずるの法はもとより公明正大なるものなれども、人々の私において乞食に物を与えんとするの心は咎むべからず。人間万事算盤を用いて決定すべきものにあらず、ただその用ゆべき場所と用ゆべからざる場所とを区別すること緊要なるのみ。世の学者、経済の公論に酔いて仁恵の私徳を忘るるなかれ。

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 上述のような議論は提起されたが、人々の誤解を避けるため、ここで追加の説明をする。個人の道徳や経済の原則には、時に一致する部分も存在する。ただし、一人一人の道徳が全体の経済に影響を及ぼすわけではない。未知の乞食にお金を与える行為や、見かけた貧しい人にその経歴を問わずに財物を寄付することがある。これらの行為は保護や援助の一形態だが、これには指図や干渉は伴わない。経済的な視点から見ると、これらの行為は効果的でないかもしれない。しかし、個人の道徳の中で、与える心は尊重され、重視されるべきである。例えば、乞食を禁止する法律は公平であるかもしれないが、個人が乞食に物を与える気持ちは非難されるべきではない。人々が全ての事を計算によって決定するわけではない。大切なのは、どのような場面でそれを適用すべきかを区別することである。学者や経済の専門家たちが経済の原則に固執して、人の優しさや個人の道徳を忘れないことが大切である。

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