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#28 何がオンラインではできないか?~ 山極寿一『スマホを捨てたい子どもたち野生に学ぶ「未知の時代」の生き方』より~|学校づくりのスパイス

 新型コロナウイルスの感染拡大が学校現場に影響を与え続けています。もちろん感染が早く収まるに超したことはないのですが、一方で学校から見るとプラスに作用するような要素も少なからずあります。

 たとえば何とか児童・生徒の学習を保障しようと、全国各地の教育委員会ではオンラインを活用した取り組みが始まり、これまで困難といわれてきたことでも、工夫次第で一定の成果を得られることも明らかになってきました。まさに「窮すれば通ず」です。

 さらに普段は学校に行きづらかった児童・生徒がオンラインの授業になったら休まず参加するようになったといった、うれしい報告もあります。オンライン教育の技術開発が進み、学習形態が多様化されれば教育はもっと豊かになるはずです。定数と業務改善の議論だけでは出口の見えなかった「働き方改革」にもきっと光明をもたらすでしょう。

 けれども、議論がそこで止まるとは思えません。次に出て来ざるを得ないのは「オンラインでも十分学習できるのに、なぜ現在ほどの教員数(人件費)が必要なのか」という疑問です。確かに同じような教育機能が果たせる事項については、膨大な人件費を払いながら、経験と研修で一歩一歩スキルアップを図っていかなければならない教員よりも、加速度的に進歩していく教育テクノロジーに投資するほうが合理的であることは明らかです。コロナ禍によって、はからずも公教育の「パンドラの箱」が開かれました。

 では、教員という職の未来は暗いのでしょうか。筆者は必ずしもそうとは考えていません。今回は京大の総長でゴリラ学者の山極寿一さんの『スマホを捨てたい子どもたち――野生に学ぶ「未知の時代」の生き方』(ポプラ社、2020年)を足がかりに、逆に何が人間である教員にしかできないのか、について考えてみたいと思います。

山極 寿一『スマホを捨てたい子どもたち――野生に学ぶ「未知の時代」の生き方』ポプラ社

「150人」

 山極氏はフィールドワークを通して「ゴリラの群れから人間社会に戻ったとき、うまく言葉を話すことができない」(92頁)というくらいゴリラになりきろうとすることでゴリラの行動や社会性を研究した霊長類学者です。

 本書のなかで山極氏は、生物としてのヒトのコミュニケーションのあり方に注目します。人間が日常的に関係を保持していられる人の数は、環境によらず150人くらいが限界であると指摘します。この数は人類の脳の容量に根拠を持つものであり、時代や社会によらず、ほぼ一定であると言います。ロビン・ダンバーという人類学者が使用しはじめたことから「ダンバー数」とも呼ばれるこの数は、本書にかぎらず近年さまざまなところで目にするようになってきました。

 日常的に関係できる人の数に制約があるのは、ゴリラの社会に観察される「同調」という意識の働きが関係しているようです。「ゴリラは、近くで同じものを食べていて楽しい気分になるとハミングで同調し合います。ゴリラはお腹が大きいので、休んでいるときにはお腹をくっつけ合ってじっとしていることも多いのですが、これも心を一つにする方法です。そのとき、目が合ってもお互いに平気です。覗き込み行動もそうです。(中略)この間に相手の心に入り込んで、自分と相手の心を合わせ、誘ったりケンカを仲裁したり、何かを思いとどまらせたりする」(94頁)。

 ところが人間は、メディアの発達によりコミュニケーションの対象を無制限に拡大できるようになりました。そのときには「人間は、感情や意識を忘れ、知識に偏りはじめたことで、本来、決してわかるはずのない『好き嫌い』や『共感』、『信頼』といった感情を、情報として『理解』する」(41頁)ことになっているというのです。

 ところが、いくらメディアによって「理解」の対象を拡大したところで、私たちの感覚はついてこないので「頭の中では言葉を通じて仲間とつながっていても、身体がつながっている感覚が得られない」(30頁)ということが起こってきます。結果「感情を置き去りにして『脳』だけでつながる人間の数を増やせば増やすほど、身体のつながりが失われ、人間は孤独を感じる」(48頁)ようになったというのです。こうした他者と同調する力の低下と孤独が、表題の「スマホを捨てたい子どもたち」の背景にある問題意識のようです。

五感を通してつながる教育の意味

 近年、脳科学や心の哲学の分野で「クオリア」という概念がとくに注目を浴びています。「感覚質」とも翻訳されますが、簡単に言うと人や物に対して抱く「感じ」のことです。別々の人から同じことを聞いても、クオリアが働くので私たちはそれを同じようには受け取りません。AIとは異なり、生物の意識にとってクオリアの働きが重要であることは多くの研究者が指摘していますが、そのメカニズムについては現在も議論が続けられています。

 私たちが自分とは違う他者と同調し、幸福に共存していくためには、他人の「クオリア」を感得する必要があり、そのためには身体性を伴うつながりがいるのではないかと筆者は考えています。これは今のところ生身の人間でないとむずかしいはずです。

 とはいっても、動物のようなスキンシップを学校で教員が実践すれば即問題になります。けれども直接触れ合わずとも身体を介して他人とつながることは可能です。音楽やスポーツでもそれは可能でしょうが、山極氏が着目するのは類人猿にはない人間に特有の「仲間と一緒に食べる」という行為です。「人間の社会性は、食物を運び、仲間と一緒に安全な場所で食べる『共食』からはじまりました」(108頁)。考えてみると、「食べる」という行為のなかでは味覚・嗅覚・触覚・聴覚・視覚の五感すべてが使われています。

 日本には昔から「同じ釜の飯を食った仲」という言い方がありますが、「共食」をすると、食べ方や同じ物を口にしたときの相手の表情で、話しただけでは分からない人柄もなんとなく分かります。「Zoom飲み」に反対ではありませんが筆者自信はあまり好きになれません。ポストコロナの社会における、五感を使ったコミュニケーションの意味を、もう一度考え直してみてはどうでしょうか?

【Tips】
▼山極さんはコロナ後の世界をこんな風に描いています。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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