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リアルゼミの講義を一受講生として聞いていると、真剣に聞いていても、ゼミが終了し、一人になったときふと、頭のどこかで思ってしまう。
「私ごときが知ったところでどうなる?考えたところでどうなる??」
結局どこかいつも他人事。

もし自分がそうなったら?
状況に自分を置き換えて想像してみる?
そもそも置き換える自分自身って何?

考えれば考えるほど迷走する。自分とその人とを重ね合わせようとする。徐々に自分と他人の区別がつかなくなる。どんどん自分も他人のように思えてくる。
問いが問いを生み、ぐるぐると考え続けている。
わからん、わからん、わからん、何を考えようとしていたのかもわからん。

一つ救いなのは、ここではわからなくてもいいとわかっていることだ。結論を出すことを強要されない。このことは、私のような「考える」ということをはじめたばかりの人間にとってとてもありがたいことだ。

はじめに

はじめまして。
いきなり始まってなんだなんだ、と思わせてしまったでしょうか。もしそうだったらすみません。
福祉分野の勉強をしつつ、本ゼミに参加している、大学2回生です。ここでは貯水槽と名乗らせていただきます。

これまでの人生で私は、掲げてはいなかったものの「なんとなく、めんどくさいことは極力さけて生きる」ということがモットーとしてあり、その言葉通りにぼんやりと毎日を過ごしてきました。
冒頭にもありますが、物事を深く「考える」ということについて、京大ゼミ運営の中で最も経験が浅いと自負しています。

そんな私が、「考える」ということをはじめるきっかけになった(広く言えばゼミにかかわるきっかけともいえるでしょう)出来事を今回、自己紹介として書いていきたいと思います。つたない文章ですが、よかったらお付き合いください。

テキトー人間

小中高と地元の公立校に通い、特に大きな出来事なく育った私は、そこそこ勉強して、そこそこ部活動をして、友達とも大きな喧嘩なく、ぬくぬくと学校生活をおくってきた。

高校2年の夏休み。
精神障害のある人の地域生活を支援する施設にボランティア活動に行くことになった。たしか「夏休みに部活以外で何かしておいた方がいいかな」とかそんなテキトーな動機で行くことにした。その施設を選んだのも、仲のいい後輩のお母さんがそこで働いているから、というこれまたテキトーな理由だったと思う。

ボランティア活動自体も別段変わったものではなく、施設の活動プログラムのお手伝いをしたり、利用者の方と話したりして、なんとなく過ごした。

楽しかったといえばそう。勉強になったといえばそう。

けれど、どんな人がいたとか、何の話をしたのかだとかはあまり意識していなかったし、正直なところあまり覚えていない。多分、他の場所にボランティアに行っていてもそうだったと思う。

そんなテキトー人間が一つだけ鮮明に覚えていたことがある。
夏なのに長袖を着ていたとある人の手首にあった、リストカットの痕。

ボランティア活動記録を書いている最中。
他の利用者の人と話しているとき。
ボランティア期間を終えたいつもの生活。
その光景は、いつもどこかで引っかかっていて離れなかった。

ただ、、、

「かわいそう」
「こういう行為をする人を少しでも減らしたい」
「だから福祉の道に進もう」

こういった感情は一つも浮かんでこなかった。ああこういう人もいるんだな、とかそんな感じのぼんやりしたもの。

どうせボランティアが終われば多分もう会わない人だし、自分とは関係ないことだな。すぐ忘れるだろーな。
こうも思ったし、自分がその人自身や、そういった話題に対して、知らない、わからない、関係ないと目を背ける側の人間だということを実感したし、こういった話題を今まで見落としてきたかもしれないということも自覚したし、反省もした。

けれど、テキトーな私は少し時間がたってしまうと、こう思ってしまう。

「リストカット痕がある人も、そういう人たちと自分は関係ないって切り離す人も、どっちもまあ、そういう人もいるよな、世の中広いし。」

こういった思いが浮かんでくると、私の脳内ではこの話題に対しての深追いを停止し、考えることをやめるという流れがある。
話題がややこしそうなとき、答えが見つからなさそうなとき、自分ではすぐに手に負えないようなとき……
そしてそのとき最後に浮かぶ言葉は決まっている。

「だからどうした?」
「今考える必要なくない?」
「ほかにしなきゃいけないこと山ほどあるし。」

こういったプロセスで考えることをやめる。脳内で機械的に行われているのいかとまで思えてくる、無意識下での思考の停止。

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(※ボランティア活動中、施設のプログラムで利用の皆さんと一緒に作成した壁掛け。現在も大切に飾っている。)

しかし、このボランティア活動中にリストカット痕を見てしまったという一連の経験を経て、それまでの人生で私が無意識のうちにしてきた、「自分と無関係だと感じたことをそれ以上考えない、考えることから逃げる」という現実に気が付いた。

同時に、その「考えるから逃げる(やめる)」ことは、楽であるかもしれないが、なんだかダメなことなのかもしれないと思った。(具体的にどうダメなのかはまだ「考え」中)

「考えない」、あるいは「考えるのをやめる」ことの危うさ・恐ろしさに気が付いた、といえばよいのだろうか。言葉にするのが難しい。
ともかく、「考え」続けなければならないということを知った私は、いかに自分が何も「考え」ず、なんとなく生きてきたのかを悟ったのだった。

「考える」


友人のつながりで京大ゼミの存在を知り、運営として参加した昨年度の後期のゼミは計8回行われた。私も講義は毎回一受講生として受講していたが、講義の中で絶えず頭はぐるぐると動き続け、様々なことをたしかに「考え」ていた。

ゼミの最中に、
「もしも自分がその人の立場だったら?」
と考える。すると自分の頭や心は、
「そんなの知らんし、わからん」
とすぐに答える。切り捨て、考えを遮断しようとする自分が存在している。

そして私ごときが知ったところでどうもならない、関係ないと考えることを放り出す。テキトーな思考回路は簡単には変わらない。変えられない。

自分には他人事だし、自分にも近づけられないし、自分とは何なのかわからないし、知ったところでどうにもならないのかもしれない。

しかし、そこで終わってはいけない、思考を無意識に停止させてはいけない、と思うようになった。

「考え」続けなければいけないことは私自身が確信をもって言えることであるし、そう知っていることもまた事実。これは感覚的なものだ。でもそうだと知っているのだ。

幸いなことに、リアルゼミでは、自分の中の確固たる答えを求められない。いくら「考え」てもいいし、答えが出なくてもいい。
「考える」という行為が大切であって、「考える」過程が大事なのだという言葉が安っぽくなく響く。だから「考える」ということの初心者である私にとって、このゼミの存在はとてもありがたい。

「考える」ということを遠慮なく行える場所で、答えはないかもしれない、自分とは関係があるかもしれないし、ないかもしれない、そんなたくさんの話たちを、私は十分に「考え」ていきたいと思う。

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次回は8月12日(水)投稿予定です!
きょうだい児かつ大学院生のメンバーが登場します。
今回の投稿の一つのアンサーになるかも??という文章です。
お楽しみに……(フォローもよろしくお願いします!)

暑い日が続いておりますが、お体ご自愛下さい!!

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