記憶を辿る30
『 映画の世界 』
Rがラッパーとして踏み出す前、ロックンロールを卒業した彼はジャズを好んで聞いていた。
映画”さらば青春の光”のようにレストアした125ccランブレッタを乗り回し、ファッションはモッズスタイル。これに呼応するかのように同年代が集まり、イギリススクーター軍団のような1軍が形成されていた。
一方でアメリカ文化を取り入れたチーマーや渋カジスタイルから派生した、映画ロッカーズのようにSR400やバイカースタイルのスティード等を乗り回す高校生軍団、八千代公園や京劇前でスケボーなどをしながらハングアウトする我々。
目まぐるしく変わるファッションスタイルと音楽や人。
この頃の同年代は情報に飢え、貪るようにどんな情報でも取りこぼさないよう取り入れ、昭和時代の不良は暴走族から本職という図式が、それらに憧れを抱けない物達が集まっていた。
強くておしゃれという不良の定義が細分化してきた時期、いつからか東京の高校生を中心に構成された egg や、ストリートニュースといった雑誌に情報源は変わるが、この時はまだ海外の映画から取り入れることが多かった。
時計仕掛けのオレンジ、ウォリアーズ、ジュースやポケットいっぱいの涙などのアンタッチャブルな映画を好んで見てはファッション、音楽、ライフスタイルを真似る。それらに触発された一癖も二癖もある人間が入り混じり、育った環境や境遇、価値観の違いで起こる衝突や摩擦、矛先を定められないストレスの発奮先を求めていく。
土曜日の夜ともなれば、三条大橋袂にあった旅館前(現スターバックス)や鴨川の遊歩道に降りていく所にある民民前、木屋町三条から1本南の小橋、京劇ボーリング前などは、それぞれの出自(高校や地元)を元にした派閥を作り、男女が入り混じる感じで混沌としていた。派閥毎の縄張りとのような趣で、それぞれの領域は侵さない暗黙の境界線が引かれていた。
私が初めて夜の華やかな世界を体験したディスコ(19話)は既に京劇ボールのゲームセンター パロに変わっていたが、この前の道は各地方の繁華街内に一つはある別名の呼び名”親富孝通り”と未だ呼ばれていているような時代だった。
そんなある日、DJ機材に繋ぐエフェクターのような物をRが私の家に持ち込んだことがある。彼も暗中模索、自分の居場所のようなものを探していたようだった。
私の記憶と彼の動きが一致しているならば、彼のサクセスはこのエフェクターから始まったはずだ。
レゲエのDJ(MC)がパトワ語でパフォーマンスするイメージで、ディレイやリバーブ機能(こだまのような反響音)を使って一頻り盛り上がった我々は、自分達でイベントを打とうとなった。ブラックミュージックに精通したOという人間も加わり、エフェクターを使ったMCありきの高校生パーティをオーガナイズするという話だった。
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