「 「孤独」と「孤独感」を混同していませんか 」

“我々は孤独に入り、そこで孤独感を捨てる”

読んでいた書籍で印象に残った言葉だ。
この感覚凄くよくわかると思った。
この一文がすとんと自分の中に落ち着いた。

「孤独」と「孤独感」。
一文字の違いであるけれど、「感」の有無ただそれだけで意味はまったく異なる。
そうわかっていても、気づくといつの間にか二つを混同してしまう自分がいる。


周囲に上手くなじめていない感覚が昔からずっとあった。
自分だけふわりと浮いているような。
私以外の皆は違う言語をもうひとつもっているような感覚。
1人違う世界に迷いこんでしまったような心細さがいつも私を襲っていた。

どんなに時間をともにしても、「親友」と言ってもらえる関係性が生まれても、私と他者にはどうしても隔たりがある。
ぴたりと重なることなんてできなくて、どこかがやっぱりずれていて、その隙間から吹くぎこちない隙間風。
その風を感じると胸がチクリとする。
この感覚は何度目の当たりにしてもなれない。毎回ちゃんと苦しい。

どれだけ語り合っても、触れ合っても、時をともにしても、二つの線は交わることはないということ。
これは「孤独」の時間に気づくことができる。

日常に追われていると、ずれている「寂しさ」や交わることのできない「もどかしさ」、そういう”事実から受け取った「感情」”に支配されてしまう。その感情こそが「孤独感」なのだと思う。

一旦、自分の意志で1人の時間を作ってみる。「孤独」を作る。
コーヒーでもいれて、まっさらなノートを開いてみる。自分と静かに向かいあう。
「寂しい」「もどかしい」この感情を掬い上げ、なるべく深く掘ってみる。

仲良しなはずのあの子。大好きなのに、どうしても引っ掛かってしまう言葉があった。
なるべくわかってあげたいのに、後輩への接し方が分からない。

ん、でも待てよ。
人はそもそも完璧に重なることなんてできないんだ。
歩み寄っても、交わることはできないんだ。
その人のすべてをわかってあげることなんてそもそも不可能だし、それを求めているとは限らない。自分だってそうだ。
決して避けることのできない「孤独」の摂理に最後はトンと自然に突き当たる。
何度同じところにたどり着いても、私はきっとまた「孤独感」に支配され苦しくなってしまうのだと思う。何度も「孤独」の時間を作り、何度もここに戻ってきたい。

「孤独感」を感じたら、まず実際に静かに実際としての「孤独」になる。
そして思考も「孤独」を恐れないように戻してあげる。

それにしてもどうして「孤独感」をこわがってしまうのだろう。
冷静に考えれば、とても自然なことなのに。
それでもやっぱり怖くて仕方ない。
どうしてこんなにおびえてしまうんだろう。不思議だ。

「孤独感」を埋めようと、逃れようと必死に仲間を見つけようとしたり群れたりしてしまう。でも、その策は最善ではなく、逆に「孤独感」は募っていくのだ。「孤独感」を払拭するには「孤独」になるしかない。それは皮肉なようで不思議なことだ。

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