「 「匿名」に甘える私たち 」

ハロウィンという行事に一切の魅力も感じることなく、
そこにギュッと集いワイワイと騒ぐ存在を理解しがたく思っていた。

元々一人で過ごすのが好きで、空気がしんと静まり澄んだ場に身を置くことが好きだ。
「好き」という気持ちは人それぞれで、それを強制する愚かさも知っているつもりだから、ただ「そういうもの」「そういう価値観」として受け取るだけでいた。
きっと、平日の美術館の常設展、1人美しい絵とじっと向き合う時間に私の心に訪れるあの心のときめきや、心の高まり、温かさを、彼らは、そういう場で得ているのだと、そう思うように努めていた。

今年のハロウィンでとても痛ましい事故が起きた。
あまりにも衝撃で、凄く苦しかった。自分と同じくらいの年頃の方々が多く犠牲になったという。
楽しむために、ときめきの為に、幸せの為に、彼らの多くはその場を訪れていたのだと思うと、本当に苦しい。

なぜだかこの隣国のニュースがずっと心に居座り続けていた。
これを機に、自分のやり方で一つ深めてみようと思った。この事件から浮かび上がる自分の思いを紐解くように本を広げ、思考してみた。
なぜハロウィンを好む人が多いのか。
なぜ、目的が一か所に集中し、群れるように行動するのか。
ハロウィンのあれらの行動がどうして多くの人の心を引きつけるのか。

その中で「匿名性」という言葉に出会った。
「仮装」によっていつもの自分とは異なる自分として、集団の中の一人として普段より責任が軽減された環境に身を置く。それれが、自分じゃない自分として匿名性を帯びる。普段の自分では決して選ばない大胆な判断を軽々としてしまうようになるのだという。
「そうなる」ことが許される一夜なのだ。

「普段の自分である」ということに満足できていない人が沢山いるのだろうか。
「我慢」をいつもしているのだろうか。
無理をして「本来の自分」以外の自分を望んでいるのだろうか。
派手なメイクや仮装等、一枚皮を被らなくちゃ堂々と立っていられないくらい普段ぐっと我慢して過ごしている人が多いのだろうか。

治安の良い、悪い、がある。それはどうやって決まっていくのだろうか。
人生に、日常に我慢や無理がなく、フラストレーションがたまっていないと、今の自分に満足しているということになる。満たされていると、攻撃的になることはないのかもしれない。でも、穏やかな人は自分の人生に満足しているかと考えるとそうでない気もする。
「知足」という言葉があって、大切にしたいと思ている。
でも、上には上がいて、欲は限りない。
できている人がいるのなら、自分にもできるのではないかと燃える秘めたる思いがあったりもする。
でも、それではゴールはないわけで。どこに思考の軸をたたえて生きていくのがいいのか、まだ私はゆらゆらと揺らぐ心と生きている。

ハロウィンという場で匿名性を帯び過激な言動を繰り返す人たちと、自分は異なるとも言い難い。
正直、はじめは「違う生き物」として、そんな目で見ていた。
全く理解できない、と。

でも、考える。
今私はこの文を「匿名」で言葉を連ね、発信している。
ハロウィンを楽しむ彼らとやっていることは同じなのかもしれない。
「匿名」だからこそ、本来の自分が背負っている責任は一切担う必要もない。いつもより、饒舌に気取った強い主張も残すことだって安易にできてしまう。
自分の本名を出して同じ言葉をの推すことができるのか?といざ問われれば、正直咄嗟に「はい」とは言えないと思う。

「匿名」という道が開けているというのは果たして良いことなのだろうか。
意図せず恵まれない環境で本来の自分を押し殺すようにじっと息をひそめて生きる人は沢山いる。
そんな人達にとって「匿名」は心のよりどころのような居場所になりうる。
ひとつ勇気を出してチャレンジするということのハードルが下がることで、色んな事が広がる可能性がぐっと高まる。素敵な未来が始まる可能性がある。

この時代自分の本来の名前で主張、発信をする人々は、自分が想像しているよりずっとすごいのだと気づかされた。はっとさせられた。
この時代、調べれば多くの詳細な情報を得ることができる。名前を出すということは、今までの人生のすべてを請け負って今を生きるということだ。そして、主張や発信の裏づけを実際の行動としてしっかりと示していかなくてはいけなくなるのだ。

「匿名」は本来の自分ではない自分になれる”希望”としてとらえることもできるが、
本来の自分との乖離が広がり続ける可能性も帯びる。その溝が広がることは巡り巡って自分を苦しめてしまうことになるのかもしれない。
「良い」「悪い」の問題ではないと思う。
私も、「匿名」であるがゆえにこうやって自由に言葉を残すことができている。自分も恩恵を受けている。

昔、大好きな文筆家さんの講演会に行ったことがあった。
彼女の文はほんのりと温かく、凄く凄く優しいものだった。彼女の言葉によって、大嫌いだった自分の一面がキュートなもののように言い換えられてしまって、まるで魔法使いのように、彼女から言葉を受け取っていた。
講演会で目にした彼女は、イメージとぴったりと重なった。
そこで発する声も、織りなす言葉も、佇まい、空気感、立ち振る舞い、装いさえも、しっくりと馴染んでいた。

自分の残すものに恥じないように生きないといけない。
その責任を負うように、私もいつか自分の名前で言葉を残していきたいと思う。
私の言葉が私の行動を裏付けるように。
私の行動が私の行動を裏付けるように。
言葉に恥じぬように。「匿名」に甘えている今もその心がまえを忘れることなく生きていきたいと思う。

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