「 見えるか見えないか、それだけの違い 」

目に見えるか、見えないかの違いで、その扱い方は大きく変わってしまう。
心。感情。思考。思い。優しさ。愛。
見えない。だからこそ雑な扱いになってしまったり、まるでないかのように
気を配ることを気づくとすっかり忘れてしまう。
見えない、でも「ない」わけではない、ということ。

意識して、見守って気にかけてあげないと、あっというまに弱まりもろく崩れてしまう。そして、「私」しか大切にしてあげることはができないんだ。なぜなら「見えない」から。

[ぼくの身体もぼくの感情も、ともにもって生まれた者なのだから、恐れたり、不安を感じたり、利己的になったり、仕返しをしたくなったりすることで自分自身を責めるのは、
自分の足の大きさが気に入らない、と言って自分自身に腹をたてるのと、同じくらいバカげたこと。
色々な感情を持つのはぼくのせいではないが、その取扱いについては僕の責任だ。]

自分から生まれてくる感情の扱い方についてよく考える。

この文はヒュー・ブレイザー著「ぼく自身のノオト」にあった一説だ。
私は、自分の容姿に対しても、受け入れることや軽やかに諦めることがずっとずっとできずにいて、時間がかかった。
正直まだ、どうしようもできない、いま選ぶことのできない自身の「容姿」について深く傷つきモヤモヤと暗い感情に苛まれてしまうこともしばしばだ。

でも、ひとつ「仕方ない」という静かな諦めがある。
少し高い身長。
湿気に弱くうねうねしてしまう髪。
ちょんと少し前に出た前歯。
お肉が付きやすい脚。
きつく見えやすい目元。
”そういうもの”と受け入れた上で、「仕方ない、じゃあ、どうしましょ」となる。少しでも好きになれるように、素敵にあれるように工夫をしてみる。その手段を考える。

「感情」に対しても同様に思っていただろうか?とこの文に出会って考えた。
恐れや不安、いらだちや嫌悪感。否定的な感情が生まれることはとても自然なことで当たり前なんだ。
それに対して「嫌な奴だ」「自分は最低だ」ということはまさにとても不自然でばかげている。

「自分の足の大きさが気に入らない、と言って自分自身に腹をたてる」
これがおかしなことだとはすぐにわかるのに、
「お母さんなんて大嫌い!という感情を持つ自分自身に腹をたてる」
となると、途端におかしいかどうかわからなくなってしまう。
目に見える。目に見えない。その違いなだけで取り扱いを誤ってしまう。
自分で自分自身を理不尽に傷つけているのだ。

感情だって
”そういうもの”と受け入れた上で、「仕方ない、じゃあ、どうしましょ」となってあげられるように。

家族を心から愛すことができないこと。
群れている人たちを否定してしまうこと。
自己否定が強くなってしまうこと。
自分から生まれる「感情」が嫌で、怖くて、苦しくなってしまうことが沢山ある。

それを「変える」ことはできないと知ること。
なかったことにはできないと知ること。

”色々な感情を持つのはぼくのせいではないが、その取扱いについては僕の責任だ。”
気づいて、掬い上げて、目を向け温めてあげられるのは「私」しかいない。
大切なのは、それをどう表現するかだということ。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?