「 重なりに安心するのではなく、ずれを楽しむ」

集団の中で、どうして標的を作りたくなってしまうのだろう。
誰か敵を作る。そうすることで味方の絆は強まるというそんな仕組みがあるという。
そもそも絆って何なのだろう。
一人であること、孤独であること、その事実からは決して逃れることはできないのに、必死になって一緒になりたがる。
「絆」「仲間」「チーム」その言葉にどれだけ縋っているのだろう。その言葉たったそれだけで私たちは何を安心しているのだろう。
その中で、隣にいるあなたとはいったいどれくらい重ねることができているのだろう。
 
絆の中で、あなたのどれだけを私は見ることができているのか。
仲間であるはずのあなたとどれほど重なっているのだろう。
同じチームのあなたにとって私はどれだけの意味を有する存在なのだろう。
 
孤独であることは、怖いことでも辛いことでもない。すべての「前提」であるだけだ。
そこからすべてが始まる。
 
同じ目標を掲げているかもしれない。でも、重なりはその目標だけだ。
同じ人を嫌っているのかもしれない。その事実が同じでも、その理由は、そこに至った経緯は違うはずだ。
 
私は、人との関わりの中で、重なりに安心しあうのではなく、それ以外のどうしても重ならない“ずれ”を愛していきたい。
 
 
これらは同志といえるのか。いつだって、たった一人で意見を掲げ進んでいかなくちゃいけないのではないか。私はこう思う。その思いが他と全く重なることはない。他の言葉に頼らずに、自分の中からあるれた言葉で、それを、それだけを頼りに。そんなふうに私は生きていきたい。
 
そうやって生きていたら、多数派も少数派もない。ただ、私一人から生まれた意見。
そういうものを重ねて、孤独を受け入れ、「私」を確立していきたい。

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