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さらばだ、他人軸そして悲劇のヒロイン3

過去に遡ったインナーチャイルドセラピーを受けて自己受容したら終わりではありません。ゴール設定して成長し人生を変えていくことが必要です。
よく勘違いしている人がいらっしゃるのですが、自己受容したら自分で何をしていいのかわからず、燃え尽き症候群になってしまう人がいます。
これ、実は自己受容できていないです。
単にインナーチャイルドセラピーを受けたことでインチキ自己肯定しているだけです。これでは、何のためにインナーチャイルドセラピーを受けたのかもわからなくなってしまいます。
インナーチャイルドセラピーは傷ついたインナーチャイルドを癒す役割がありますが、その後の自己受容は自分自身で行うものです。
インナーチャイルドセラピーを受けた人のなかでも抽象度や成長の伸び率に大きな差が出てしまうのも本人が本気で変わる気があるかどうかなのです。

それで、ゴールを設定しましょうとなった時、ゴールさえも思い浮かばない人がいるのです。それは今までずっと他人軸で何をやるにも他人に許可を得て他人に人生決めてもらってきた人だから、自分で考える力が失われているんですよね。
ゴールの添削指導というのも有料ではじめましたが、どうしてもゴールがわからない人は指導者が案を出して設定させていただいているのですが、あくまで仮なので指導者が用意してくれたから私はゴール設定できている、できていない人よりはマシなんだと甘えるのではなく、より自分にふさわしいゴールが見つかったのならゴールを更新していただきたいと思います。
もしくは苫米地さんの本を読んで取捨選択しつつもゴールについて勉強するかですね。やっぱり、自分の頭で考えて見つけ出したゴールというのは強いです。

ところで、ゴール設定したのにゴールがズレてしまう人がいます。
どのようにズレるのかというと、現状の内側にずれてしまうのです。現状の内側のゴールだった場合邪気になります。
ゴールがズレてしまう原因はまだ承認欲求が残っているからです。
私は、承認欲求とは関係のないゴールを設定しましょうとしきりに言っていますが、承認欲求とは関係のないゴールを設定できてもその上で本人が承認欲求を切り捨てることを怠ると、せっかく設定したゴールが居心地が悪くなったり何故このゴールなのかの意味さえもわからなくなり、やっぱり今までの方がいいとなってしまうのです。

これじゃいつまでたっても成長しませんね。
承認欲求がある限りドリームキラーなのです。

私は、無駄な時間を省き最速で変わっていただきたいと思っているので、何がいけないのかを把握しハッキリ言うようにしています。だから単にそれを受け入れ、モヤモヤするならその都度感情解放すればいい、シンプルにそれなんですね。
しかし、こんな人がいます。

「だって仕方ないでしょ!○○だもん。」と言う人。
このような言葉を発するのは「私は自己受容したくないんです!」と宣言しているようなものであり「私は自己受容しません!」と自分のことは棚に上げておいて相手に対しては「あなたは他者受容しなさいよ!」と強制するのです。それは言い換えればですよ、

私は自己受容したくない!

自己受容しないそんな私を

認めて!認めて!
愛して!愛して!


結局こんな茶番がしたいだけなのです。

更にこのように言い換えることもできます。
「だって仕方ないでしょ!○○だもん。」は
「どうせ私は○○ですよ~」とか
「私は○○なのでできません。できる自信がないんです。」
と同時に自虐思考もしていることになるのです。
ですから、悲劇のヒロインになる要素もあるのです。
「だって仕方ないでしょ!○○だもん。」の方で言ってくる人も「どうせ私は○○ですよ~」で言ってくる人も結局は同じで、

承認欲求つまりサイキックアタックをぶつけているんですよ。

ものすごく身勝手で我が儘ですよね?すごく迷惑な話です。

だって自分が自己受容を拒否するばかりではなく、相手にダメージを与えているわけですから。しかも相手を屈服させてそれ以上何も言わせず諦めさせる行為です。
「ごめんなさい。」と言わせて「よっしゃー!これ以上叱られなくて済む」と思うのも承認欲求だし、
「そんなことないよ。」と言わせて「同情してくれて嬉しい!」と思うのも承認欲求を満たしたいからこそなのです。
相手にそのようにさせるのは同調圧力であり悪魔術をかけていることになります。

私は、最短でできる対処法を教えているだけにすぎないのですが、「だって私○○だから感情解放できないんです。」なんて言われると本当にこの人やる気あるの?本気で変わりたいと思っているの?
ただ単に指導者に話し相手になってほしいだけ構ってほしいだけなんじゃないの?と思うのです。

確かに指導者とクライアントとの信頼関係は必要だと思っていますが、クライアント側が信頼関係の意味を歪めていると、まるで友達かのように調子に乗り図々しくなるばかりか便利屋のようにこき使いはじめます。

私が思っているクライアントとの信頼関係

抽象度
指導者>クライアント

クライアントが思っている指導者との信頼関係

抽象度
指導者=クライアント

です。
指導者は相手目線に立つためにもある程度抽象度を上げ下げして調節しても構いませんが、それでもクライアントより高い抽象度を維持しておかなくてはなりません。
何故なら抽象度がクライアントと同じでは悪魔術をかけられ、それに屈しやすくなる隙を作ってしまいますし、承認欲求をぶつけられたときのダメージも大きくなります。

自己受容、感情解放は誰でも通る道です。「私、あまりにもつらすぎて感情解放できないんです。」なんて言い訳する人がいますが、大事なことを見逃していますね。気を引くためかもしれませんが。

感情解放がつらいと思っている自分を何故受け入れようとしないのでしょう?

そのつらすぎる思いを解放させるのが一番最初にすべきことなのではないですか?


そうすると、途端に悲劇のヒロインになって「もうそれ以上言わないでください。」とか「私、感情解放する才能がないので自信がありません。感情解放できるかもわかりません。」とか言いだします。
もしこれを言われた場合、私は「そんな自信のない自分を受け入れましょう。不安な気持ちを受け入れて解放させましょう。」と言います。
そうすると、その人はそれ以上何も言えなくなってだんまりしてしまうのです。ですが、本心はこんなことになっていると思います。

私が思い通りの反応をしてくれなかったから面白くないのです。
その面白くない、悔しい思いすらも受け入れてほしいのですが、どうやらそれをする気がないようです。
そんな人が私に求めているのは、ただただそのダメな自分を演じることでその傷を私に舐めてほしいと思っているのです。


しかも、私がそれをやると本人は勝ったと舞い上がり、インチキ自己肯定してしまいます。だから私は絶対にその手には乗りません。
悲劇のヒロインになることの利点は、相手に罪悪感を植え付けることや周りの人に同調圧力をかけ同情心を買い相手側を悪者に仕立て上げることができてしまいます。拡大解釈して被害妄想して、究極の悪魔術ですね。

悲劇のヒロインになることが病みつきになっている人は、過去に悲劇のヒロインになったことで人が自分の思い通りになった成功体験のうま味が忘れられないのです。
私自身も過去に悲劇のヒロインだった経験がありますからそれはよくわかっています。

しかし、この悲劇のヒロインというのは本当に迷惑でしかないのです。
悲劇のヒロインが養分にしているのが承認欲求です。
悲劇のヒロインであり続けるためには苦しみ続けるという既成事実が必要です。だからこそ、苦しむことへの印象が好印象になり、苦しむ方の選択を自ら選んでしまいます。

苦しみたくないというくせに苦しむ方を選択するのはおかしな話です。
人生が上手くいかなくさせているのはその悲劇のヒロイン気質だと思います。この動画を何度も見てください。それくらい承認欲求は不要なものなのです。

承認欲求は苦しみでしかないのです。
ここで、方向転換し承認欲求を切り捨てることができればいいのですが、
「悲劇のヒロインを手放せない人だから」とか、「指導者が痛烈に批判する程生きている価値のないダメ人間だから」をネタにしてまた悲劇のヒロインになることだけはおやめください。
こんなことをしても恥を晒すだけです。
プライドは人一倍高いはずなのに、自爆して恥を晒すとは何とも皮肉なものです。これさえも悲劇のヒロインネタにするかもしれませんが。
私は悲劇のヒロインの行動パターンは把握していますので、無駄なあがきはやめてさっさと承認欲求を切り捨てるしかありません。
他に方法はない以上これを続けていくしかないのです。

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