Kyosuke

数学を通じて言葉を学んでいる教育見習いです.

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最近の記事

タフな経験のみが過去になる

ノスタルジックな気分に浸るとき, その思考の対象となる過去は, 往々にして辛い経験である. 楽をしていたり怠けていたり, ただはしゃいでいた経験は, その対象とはならない. というか記憶にない. もちろん, 友人や仲間と残した楽しい経験はその対象になっているような気がしないでもないが, それは少し勘違いで, 楽しい経験の裏に隠れている, 辛い経験を思い出しているに過ぎない. いつも疑問に思うが, 果たして私は, ただ欲して辛い経験をしたいと思っているのであろうか. それとも,

    • やっぱりTeX が使いたい

      大学院を出てからすでに4ヶ月以上が経過してしまった. 修士課程で獲得した経験の重みを感じながら充実した教員生活を送っている. ただ一つ消えない不満がある. TeX が使いたい!!. 数学の資料作成に関して, 中等教育において多くのシェアを占めているソフトは数研出版のStudyaidである. このソフトを使用する長所は, 図の作成, 過去問データベースへのアクセスなどである. これは中等教育において必要となる業務の多くをカバーしている. しかしながら, 私が感じている,

      • 修士課程を修了しました.

        本日, 大学院修士の課程を修了しました. 多くを学ぶことができました. とても良い環境で勉強することができました. 私にとって数学が, 人生の指針の一つであることを再確認できる良い2年間でした. そしてちゃっかり修論が表彰されました. 4月からは新天地にて教員生活を再開します. 大学院で獲得した理性を活かせるような教育活動をしていきます. 以前も述べましたように, 私にとってこれらの"結果"は"わかりやすさ"にすぎません. これよりも以上に大切な,

        • 大人と子供

          子供は多くを知りたがり, 大人は多くを知っているつもりになる. これは脳の発達の問題であるから仕方がない. 注意すべきはこの特性の使い方である. 結論として, 親(大人)が子(子供)へ与えるべきは学ぶ姿であって学んだ結果でない. 前者を教養と呼び, 後者を知識と呼ぶ. 以下ではそのように思う理由を教育の観点から述べる. "常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである"とアインシュタインが言ったように, 社会から要請される価値基準は時代によって大きく異なるため

        タフな経験のみが過去になる

          自信と自身

           自信なんて嘘さ. 何か資格を取ってみたり, 何か良い業績を作ったりすることで自信がついたと思うことがあるかもしれない. こんなものは 他者比較による相対的な評価が少し良くなったにすぎない. もしも資格試験に不合格になっていたり, 同僚の中で業績が最下位であった場合, その過程でどれだけ新しい力を獲得していようとも, これは失敗体験として記憶され, 自信とは呼べない感情を獲得することになる. ともすれば自信が欲しいという欲求は成功を求める感情に近いのであろうか. サッカ

          自信と自身

          有名大学とキャリア

          有名であることはわかりやすいという点で良い. しかしそれよりも以上の意味がない. 正しい理性を備えた人間は, 他者の為人がわかるものであり, わかりやすさは不要である. 従ってこの場合有名であることの良さは消滅する. 一方, 正しい理性を備えていない人間と会話する際には, わかりやすさは極めて重要である. この場合, 外面の方が内面よりも目につきやすいものであり, 外面に現れる情報がその人物を理解するための十分条件になりさえする. 恥ずかしながら私も, まだ正しい理性を

          有名大学とキャリア

          主体的・対話的で深い学び とは, はて..

          主体的・対話的で深い学びとは, なんともいい加減な言葉である. 文部科学省が発表している現行の学習指導要領によれば, 従来のアクティブラーニングなる学びの視点を引き継ぐ形で, 主体的・対話的で深い学びの実践に重きを置いている. "主体的・対話的で深い学び(「アクティブ・ラーニング」) の視点からの授業改善について(イメージ)"より詳細を引用すると, これらの言葉は以下のように使用されている : 【主体的な学び】の視点 : 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の

          主体的・対話的で深い学び とは, はて..

          独創的な思考と現代教育の病魔

          学校で行われる数学教育といえば, 少しの定義と一つの例題と多くの問題演習というイメージがある. これによって獲得できる力は, 例えば時間内に多くの問題をこなす力であったり, 例えば難関大学の数学の解法を知っていることであったりする. 一方で高等学校学習指導要領数学編解説によれば, 数学科の目標とは以下のものをいう: 数学における基本的な概念や原理・法則を体系的に理解するとともに, 事象を数学科したり, 数学的に解釈したり, 数学的に表現・処理したりする技能を身につけるよう

          独創的な思考と現代教育の病魔

          大学院修了と論文

          考えを文章にすることの大切さを知っている. 自分自身で完結できるほど, 私の脳みそは優れた機能を持っていないので, 文章に書き出し, 未来の自分に思考の続きを託すようにしている. 簡単に言えば, 私は記憶力の弱さゆえにくメモをしなければならない人間である. メモの形態は例えばこの note 二角ブログ形式であったり, iphone のリマインド機能であったり, 友人であったりする. さて, 論文を書く行為はメモの形態に含まれるのであろうか. 大学院を修士課程で修了す

          大学院修了と論文

          修士論文と博士課程

          私は博士課程には行かない. 先月末に修士論文の提出と修論審査会を終えたわけであるが, それから現在に至るまでの3週間, 私は数学を投げ出している. 精神的に参ってしまった. ここでは今現在の私の心情を書き残す. 学部を卒業したのち, 2年間の教員生活を経て, 私は大学院に進学した. 進学理由は明確で, 自分の中に数学が欲しかったからである. これは嘘偽りのない当時の私の心情である. 当時の私は, 数学を教えている際に, ある違和感を常に感じていた. 生徒たちに嘘をついて

          修士論文と博士課程

          日本語と数学

          日本語は数学に不向きである. 大学数学の取っ掛かりとなる$${\varepsilon - N}$$論法 にて, 多くの学生が躓いてしまう. 例えば $$ {\lim_{n \to \infty } a_n = a} $$  は, $$ {\forall\varepsilon >0, \exist N\in \mathbb{N}, s. t. \forall n\in\mathbb{N}, \bigr( n\ge N\Rightarrow |a_n-a| < \va

          日本語と数学

          無知が縋るは経験のみ

          経験論は標本数1である. 閉鎖的な空間には慣習というものが存在する. あるべき姿は過去によって規定され, 理論無用な感覚の世界が広がっているという意味である. ある解決すべき課題が存在するとする. さらに解決策として1. 突飛な策, 2. 過去の事例を踏襲した策, の二つが存在するとする. このとき, 1. の策の優秀さに関わらず, 2. の策が採用されることが多いであろう. 過去の経験をもとに2. を採用するわけであるが, なぜそうしてしまうのであろうか. 人間は歳を取れ

          無知が縋るは経験のみ

          活動と思考

          "ぼーっと生きてんじゃねぇよ"という言葉をご存知であろうか. 某テレビ番組の人気キャラクター, チコちゃんのセリフである. 私はよくぼーっと考え事をすることがあるわけで, ぼーっとしている時間にこそ自分らしい考えができていると感じている. 幼少期にこそ先生や友人から, 私自身の活動内容を指定されることもあったが, もっぱら最近は勝手に生きているため, 自由気ままにぼーっとしている. チコちゃんがこの言葉を使う時は, もちろん, 自立した思考を大切にしているわけであるが,

          活動と思考

          教師と時間

          大学生活は部活動をしていたら知らぬ間に過ぎ去っていたわけであるが, 就職活動もろくにしていなかった私のポケットには教員免許しかなかった. 特に目指していたわけでもないが, そんなこんなで教員になった. 新卒1年目は中学校で常勤講師として働いた. これがなかなか大変であった. 何が大変であったかといえば, とにかく時間がないことが大変であった. 数学の常勤講師として採用されたのだから, 数学を教えていく気概は十分にあったのだが, 想像と実際はいつもはっきりと乖離している

          教師と時間

          抜き差しならない経験の重み

          偉大な先人の言葉には重みがあり, 納得できる. それは, 彼ら自身の経験が我々読者にはまるで根拠のように見えるからであろう. たとえ私が戦争について語ったところで, 戦争の経験がない私の言葉には重みがない. たとえ私が貧困について語ったところで, 裕福であった私の言葉には重みがない. 私が語るべきは経験の裏打ちのある事柄であるべきであろうと思う. 戦争や貧困, 飢餓について語ることはできないが, 現代を生きる私が経験した私自身の抜き差しならない経験を記す. 消防士と看護師の

          抜き差しならない経験の重み