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修士論文と博士課程

私は博士課程には行かない. 先月末に修士論文の提出と修論審査会を終えたわけであるが, それから現在に至るまでの3週間, 私は数学を投げ出している. 精神的に参ってしまった. ここでは今現在の私の心情を書き残す.

学部を卒業したのち, 2年間の教員生活を経て, 私は大学院に進学した. 進学理由は明確で, 自分の中に数学が欲しかったからである. これは嘘偽りのない当時の私の心情である. 当時の私は, 数学を教えている際に, ある違和感を常に感じていた. 生徒たちに嘘をついているという感覚である. "数学を教えている私は果たしてこの子たちに教えられるほど数学を知っているのであろうか. "と常に思っていた. もちろん, 高校や中学の数学を全く知らなかったわけではないが, 本質的に何を教えれば良いのかがわからなかった. 定義を伝えて例題を記し問題を解くという行為を通じて, 私は生徒に何を伝えていることになっているのかがわからなかった. これは伝え方の方法論の問題ではなく数学の本質的理解の問題である. 中学や高校の数学の裏側に存在する数学を本質的に理解していないにも関わらず, スーツを着て偉そうに数学を教えていることになっている私は一体何者なのであろうか, と常に思っていた. こんな人生は嫌だ. そんな心情から, 私は数学を学ぶことを決意し, 進学した.

2年経った今, 当時感じていた嘘をついているという感覚はまるっきり消え去った. 最善の努力ができたかと言われればそうではないが, 少なくともそのような感覚が消え去る程度には数学を知ることができた.

 昨年の10月時点までは, 博士課程へ進学する気は全くなかった. 修士論文を作成する過程で進学意欲が湧いてきてしまった. 私も数学者になることができるのではないかと思ってしまった. そして気づけば私は博士の進学試験を受験し, 合格した.

全く, 浮かれていた. 浮き足だって夢を語り, 博士へ進学する気になっていたのだが, ふと冷静になって考えると, この2年間の恐怖が蘇ってきた. 数学は, 良くも悪くも残酷な学問である. 一度わかってしまえばわからなかったことを不思議に感じるくらい, わからなかった感覚が消え去る. 他方, いつまでたっても理解できないことは山のようにある. この性質のせいであろうか, 教える側は"なぜわからないのだ "と思いながら教え, 教わる側は"何を言っているのだ"と感じながら教わる. そんな感情を繰り返した2年間は, 本当に辛い2年間であった. 数学への漠然とした恐怖心が消え去った代わりに, アカデミアへの明確な恐怖心が芽生えてしまったのだ. 私はこの恐怖心から逃げる. 数学者への道を諦める.

博士課程へは進学しない. 修士課程への進学目的はすでに果たしたのだから, もういいじゃないか. なぜそこまでして自分を苦しめるのだ. 楽になりたい.

精神的にあまり強い人間ではないので, 私は数学と哲学を好むのかも知れない. こんな辛い時はセネカの言葉を借りて諦めをつけるのも良い選択肢であろう. 最善の選択肢なんて私にはわからない. きっとどんな道を選んだとしても, ある一定の後悔は付きまとうのであろうし, 決断をしたのであればその決断を投げ出さなければそれで良いとデカルトも言っているではないか.

(1年後の私はこの文章を見てどう思っているんだろう...)



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