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主体的・対話的で深い学び とは, はて..

 主体的・対話的で深い学びとは, なんともいい加減な言葉である. 文部科学省が発表している現行の学習指導要領によれば, 従来のアクティブラーニングなる学びの視点を引き継ぐ形で, 主体的・対話的で深い学びの実践に重きを置いている. "主体的・対話的で深い学び(「アクティブ・ラーニング」) の視点からの授業改善について(イメージ)"より詳細を引用すると, これらの言葉は以下のように使用されている : 

  • 【主体的な学び】の視点 : 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通し を持って粘り強く取り組み、自己の学習活動 を振り返って次につなげる「主体的な学び」 が実現できているか。

  • 【対話的な学び】の視点 : 子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自己 の考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できて いるか。

 主体性とは"キャリアと結びつきのある学びという行為"に対するもので, 対話する対象は"他者"であるらしい.

キャリア形成への関係が見出せない学びに関しては主体性を求めていないらしいが, はて. 少なくとも私が数学や哲学を好む理由はキャリア形成に関係があるからではない. 特に哲学は, 何か外からの要求があるから学んでいるわけではなくて, あくまで自身から生じる欲求によって学んでいる. 文科省による主体性の定義を使用するのであれば, 例えば学校教員が知らない職業は, 社会(文科省)から要請されていない職業ということになり, また例えば学生が関心をもった事柄に対して"キャリアと無関係そうだから"という理由でこの欲求が排斥されたりする(気がする). ダンゴムシが好きだからという理由でダンゴムシを学ぶためにはダンゴムシ学者になるしかないのか. 日本庭園が好きなのであれば庭師になるしかないのか. 
 また対話的とは他者と対話的であることを意味しており, 自身との対話は意味しない. 自身との対話は主体性に含まれているのかもしれないが, そうなのであれば上で述べたように純粋な欲求はここでは要求されていない. 例えば数学を学ぶにあたって, 文科省のいう"対話的"の重要性を感じることは多々ある. 本を通じて先哲の考え方を理解したいと思い, その思いを共有している仲間たちと意見を交わす時間は何にも変え難い重要な時間である. しかしそれよりも以前に, まずは自分自身の考えを知ることができていないのならば, 他者との対話は成立しない. 第三者から見れば対話が成立しているように見えることがあるかもしれないが, 実際には対話になっていないことを, 自分が一番よく理解しているはずである.

 私は, より広い意味で主体性のある学びを要求する. ダンゴムシが好きならばダンゴムシを観察すればいいし, 庭園が好きなのであれば京都へでも好きなところに行けばいい. 私はその行為の意味を要求したりはしない. 何事も自身の関心に従ってやりきることができるのであれば, それは良い生き方なのではないであろうか. 
 私は, 自分自身との対話を重要視する. 本の作者の意図が分からずとも, 友人の意見が理解できなくとも, 自身の考えがあればそれで良い. それによって他者を傷つけてしまわないように, 我々教員が存在している. 

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