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大学院修了と論文

 考えを文章にすることの大切さを知っている. 自分自身で完結できるほど, 私の脳みそは優れた機能を持っていないので, 文章に書き出し, 未来の自分に思考の続きを託すようにしている. 簡単に言えば, 私は記憶力の弱さゆえにくメモをしなければならない人間である. メモの形態は例えばこの note 二角ブログ形式であったり,  iphone のリマインド機能であったり, 友人であったりする. さて, 論文を書く行為はメモの形態に含まれるのであろうか. 

 大学院を修士課程で修了する(私の周りの)人間の多くは, 修士論文で仕上げたネタを論文にする. 修士論文には, 修士課程課程における勉強の成果発表の色がある. そのため, 既存の研究成果やよく知られた定義や定理, その証明など, 自分の研究成果以外のことも(少なくとも私の場合は)書く必要があり, 分量が増えてしまう. その勉強成果から必要最小限の内容を引き抜き, 論文を作成するわけである. 

 やりたくない行為に直面するとやらない理由を探す癖が, 私にはある. 人生に意味などないのであるから, 何をするにも根拠は後付けで, また何をしないにも根拠などはなから存在しない. だが逃げたいので根拠を探す節が, 私にはある. 本日は私が論文を書かなくて済む理由探しにお付き合いください. 

 アカデミアで生きていくわけでもなしに, なぜ論文を書かなければならないのであろうか. あるひとは, それが自身の名刺代わりになるからだと言い, またある人は文章を書く練習だからという. 私は言葉や文章をうまく扱える人間になりたいと考えているので, 文章を書く練習といわれれば, 確かにこれは論文を書くための理由になる. はて, 私はなぜ文章をうまく扱えるようになりたいのであろうか. それはきっと, 文章や言葉を扱う人間のことをかっこいい人間であると思っているからであろう. さて, なぜ私はかっこいい人間になりたいのであろうか. 

 人生に意味などない. 理由や根拠を求める作業に際限はない. もし仮にこれが根拠だと述べる事柄があったとして, かつその事柄がその人のとっては紛れもなく根拠であると認識されている場合であっても, その場合でもそれは論理の階層の問題で, その人にとっての公理でしかない. "かっこいい人間になるべきである"という命題は私にとっては公理であるわけで, これが本当に正しいかなど検証のしようがない. というか検証を試みること自体がナンセンスである. 

 というわけで私は論文を書くべきらしい. 文章にすることであるべき結論に導かれた. 記憶力の話から始めた文章の話題が, 気づけが自身の公理の話題にすり代わっているではないか. やはり私の記憶力は壊滅的なのかも知れない. いづれにせよ, 文章にしたことで論文を書く理由を知れた.

 もう少しで大学院生活が修了する. がんばれ私!!

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