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活動と思考

  "ぼーっと生きてんじゃねぇよ"という言葉をご存知であろうか. 某テレビ番組の人気キャラクター, チコちゃんのセリフである. 私はよくぼーっと考え事をすることがあるわけで, ぼーっとしている時間にこそ自分らしい考えができていると感じている. 幼少期にこそ先生や友人から, 私自身の活動内容を指定されることもあったが, もっぱら最近は勝手に生きているため, 自由気ままにぼーっとしている. チコちゃんがこの言葉を使う時は, もちろん, 自立した思考を大切にしているわけであるが, 私がぼーっとする時も, もちろん, 自身で考える時間を大切にしている. 唯一異なる点は, チコちゃんの言葉には行動を前提にしていることであろう. 

 数学を行っていると, 思考した結果ある問題が解決したが, だからなんなのだ, ということが頻繁に起こる. 自分にとってのわだかまりが解けたことは嬉しいが, これが社会にとってどれだけ重要なことなのであろうか, と思うことがよくあるという意味である. 仮に社会にとって無意味なことを行なった場合, これは私にとってもなお無意味なのであろうか. 実学以外は価値がない, 社会にとって役立つことだけをするべきである, などの命題の真偽はどのように特定できるであろうか.

 実学とはなんであろうか. この言葉は福沢諭吉が[学問のすすめ]の中で初めて扱った言葉であるが, 彼によれば, "もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり"の書き出しに次のように続けている: 

"たとえば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言もんごん、帳合いの仕方、算盤そろばんの稽古、天秤てんびんの取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土ふうど道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。".

 すなわち, 社会と接続している事柄のことを実学とよんでいるわけである. さて, 社会との接続とは, 一体何であるか. 現在社会では, なお計算力が社会と関係する力であることはわかる. では私の専門の関数不等式はどうであろうか. 関数不等式を研究することで, とある関数がとある枠組みでとある意味を持つことになり, それによって例えば通信速度が上がったり, AIの回答精度が上がったりするため, 関数不等式の研究もなお社会と接続していると考えられる. 芸術や哲学はどうであろうか. 少なくとも私は芸術品や哲学者の言葉に救われた経験があり, そんな私は社会に存在しているので, これも社会と接続している実学と呼べるであろう. 

 このように考えるとあらゆる事柄が全て実学と呼べるように思う. ただし世間一般が実学でないと呼ぶ事柄は上の意味で社会との接続が遠いものを指しているように思う. すなわち実学であるか否かは, 三段論法の階層の問題で, 階層が2階程度までは実学と呼び, 3階以上は実学でないとしているように思う. すなわち, 

  1. 計算ができる→買い物がうまくできる.

  2. 関数不等式がある意味で解ける→その意味の枠組みで応用可能な研究実験がなされる→(色々あって)→ chat gpt すごい!!と思える. 

において, 1 は矢印の数が1であるから実学と呼ぼう, 2 は矢印の数が3以上であるから実学とは呼ばないでおこう, というわけである. もちろん私はこの考え方には否定的で, そもそも考える動機が社会との接続性であるべきなどと考えたくない. 関心があるから考えるのだ. その結果社会に役立つ行動ができなかったとしても, そんなことは私にとってどうでも良い.

 などといいながら, スタバでコーヒーを飲んだり住み心地の良い部屋を作ったりするためのお金が欲しいので社会に必要とされる仕事をしてお金を稼いでいる私がいる. お金降ってこないかな…



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