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無知が縋るは経験のみ

経験論は標本数1である. 閉鎖的な空間には慣習というものが存在する. あるべき姿は過去によって規定され, 理論無用な感覚の世界が広がっているという意味である. ある解決すべき課題が存在するとする. さらに解決策として1. 突飛な策, 2. 過去の事例を踏襲した策, の二つが存在するとする. このとき, 1. の策の優秀さに関わらず, 2. の策が採用されることが多いであろう. 過去の経験をもとに2. を採用するわけであるが, なぜそうしてしまうのであろうか.

人間は歳を取れば取るほどに習慣的な行動を行うようになる. これは脳の神経結合の問題であるから仕方がないことであろう. 脳の神経細胞のつなぎ目にはスパインと呼ばれている樹状突起が存在しており, ある経験を行うことでこのスパインが大きくなり, 神経結合を強固なものにする, らしい. しばらく経験をしていなければスパインは収縮し消滅するが, その反対に, 繰り返し経験すればその分, 結合が強まり反復系の行動がしやすくなっていき, 逆に新規の結合を作るために負荷がかかりやすくなる, らしい. 閉鎖的な空間に慣習が根付いてしまう原因はこの脳の働きであると私は認識している.  

私は, 慣習的な行動を行うことが怖い. 自己決定ができない人間になってしまうことが怖い. 独立した思考ができなくなることが怖い. ハンナアレントの言葉を借りれば, 他人に思考を委ねる慣習的な行動は全体主義になりかねない危険性がある.

とは言っても, すでに慣習的になってしまった人間は存在するわけで, その人間ともうまく共存していかなければならない. これは僕の偏見かもしれないが, このような人々はあまり教養がない. 法律に関する知識や独自の価値基準が見て取れない, 彼らの価値は集団に依存している, という偏見が私にはある. 仕組みを理解しようとしないから自らの経験にすがるしかないように私には見えている. 先述の通り, 同じ行動を繰り返しせば繰り返すほどに, その行動を繰り返し, 新しい行動様式を取り入れにくくなる(それはわかる. ). 従って,新しい行動が目障りに見えてしまう(これもわかる. ). 結果として慣習的な行動を私にも強要してくる(これはわからない!).

仕組みを知らなければ経験に従うしかない. 慣習的な行動様式を強要してくる人々とは距離を置き, 自身の信念を確認するべきである. これは少し強い言葉に見えるかもしれないが, 私の考える社会にとってこれは本質的な言葉である.


3年前に1年間中学校で働いていたわけであるが, その時の貴重な経験を記す. そこでは毎週月曜日に服装頭髪検査なる行事が開催されていた. 元気に登校してくる児童生徒の外見を, ある意味で整える行事である. この行事の目的意識は学級経営や地域との関わりを良好に保つことであることは言うまでもないが, 手段として見た目を整えるというのは, ナンセンスではないであろうか. この行事は学校の昇降口で行われていた. 学校の昇降口には大きな絵が飾られているとこが多いのだが, この学校にも, 大きな絵が飾られていた. "We are the world" の文章が中心にあって, 多様な肌の色をした人物たちが肩を組んでいる絵である. これが私の貴重な経験である.

正確な知識と多様な価値基準を持った人間に私はなりたいし, そんな学生の成長に関われたら, 良い人生になるんじゃないかな. そんな思いを胸に秘めつつ, 今日も元気にお勉強!.  


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