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黙って、書けよ


黙って 瞑想!!
黙って ダイナミック!!


私に、OSHOのダイナミック瞑想を教えてくれた友人が、先日のオンライン瞑想会でシェアしてくれたこと。


最近、また『変化』が来ていて、感情が激しい。

そういうとき、「誰か」に「何か」をぶつけてしまいそうになる。

怒りとか 不安とか 
もやもや ぐちゃぐちゃしたもの
内側のゴミ

誰かに何かをぶつけてしまってから、あとになってから、
「やってしまった!!」と気付く。


だから、「何か」が湧いてきたとき
(それが「何」か分からなくても。)
(それが「何」か分からないからこそ。)

そういうとき私は、
黙って 瞑想!! 黙って ダイナミック!!

(友人のシェア内容を、私の記憶と印象を頼りに文字化したもの)



『瞑想』を、
静かに座って、ゆっくりと呼吸をして、雑念をそぎ落として、、、
というものだとイメージしている人からすると、

OSHOのダイナミック瞑想は衝撃だろう。

もれずに、私もその1人だった。


特に、第2ステージのカタルシス。
意識的かつ徹底的に、狂う!!


怒り 悲しみ 憎しみ 恨み 
不安 恐れ 蔑み 嫉妬
叩き 喚き 騒ぎ 叫び 泣き
笑い 喜び 踊り 声を上げる


要は、なんでもあり。なのだ



きっと、このステージに没頭している人々を、”なんにも知らない人間”が見たなら、「ヤバイ奴ら」「恐い」「危険!!」と思うだろう。


だけど、
ほんとうに「ヤバイ奴」「恐い人間」「危険な奴ら」なんて、この世界にはごろごろ居る。


『自分のなかに溜まっているゴミ』を
吐き出すこともできずに、吐き出し方も知らずに、
近くの誰かや何かに、たまたま側を通りかかった誰かに「投げつける」。

自ら「片付ける方法」を知らないから、
「代わりに片付けろよ!!」と、投げつけ押し付ける人間が、この世の中には沢山いる。


ダイナミック瞑想を知った人間は、
『安全で適切な場所』で、各自、「自分のなかのゴミ」を「掃き出し」て、「片付け」ているだけだ。




感情は、動くもの

生きている限り、動き続ける




表面だけ取り繕って、社会や世間に合わせられる”大人なフリ”をしているから、知らぬうちに溜まり溜まったものが、あるとき突然、爆発する。

しまった!!と思っても、後の祭り。


そういうとき、私たちは大抵、『身近な誰か』を傷付けている。


手が出ていたり、物を投げつけてしまったり、
冷たい態度を取ったり、無視したり、
非難したり、怒鳴ったり、
言葉の刃で切り付けたり、、、


身近な誰か、大切な誰か、を傷付けている。
身近な誰か、大切な誰か、にぶつけている。


解って欲しいから。
受け止めて欲しいから。


この人だったら、理解してくれる。受け止めてくれる。と思っているから

この人には、理解してほしい。受け止めてほしい。と願っているから。期待してしまうから。


だけど、大抵それは上手くいかない。


自分の『放ったもの』が、そのまま『返ってくる』のが、この世界だから。


解って欲しいと願うなら、
まずは自分で自分の「ほんとうに理解してほしい思い」について理解しようと努めることだ。
ほんとうに「受け止めてほしいこと」「叶えたい思い」は何なのか、自分でよくよく見ることだ。


その「観察」を助けてくれるのが、瞑想なのだ。




私にとっては『書くこと』も瞑想。

20年以上続けてきた『ノート』が、わたしの瞑想スペースとも言えるだろう。


友だちに倣って言い替えるなら、

もやもや 苛々 ぐじぐじ し始めたなら、

黙って ノート!!
黙って(ノートにぜんぶ)吐き出せ!!


もちろん、『書く』という行為は『言葉』を伴うが、
言葉や文章にもならない『感情』や『衝動』が湧いてくることもある。

そういうときも、とりあえず、書く。


あーーー!!!とか
う~~~。。。とか

くそっ!!!
苛っ!!
怒!!!  とか



そういうときのノートは決して人に見せられるもんじゃない。
字も言葉もくっそ汚いし
誤字脱字半端ないし
おんなじようなことをぐるぐるぐるぐる書いてることもあるし
まじしつこい!!まじ重っ!
女々しいったらないわ!ってこともある


だけど。
大切な誰かや何かを巻き込むよりはましだ。
大切な誰かや何かを傷付けて失ってしまうよりは、ましだ。


そう思うから、
まっしろなノートがぐちゃぐちゃに汚れていくことくらい構わない。


それに。
そうやって、思いっきり書いたあとは、必ず『何か』に気が付く。

吐き出しても吐き出しても、
投げつけても投げつけても、消えない『何か』に気づく。

わたしのなかに、残り続ける『何か』。


ぐちゃぐちゃな感情にまみれていたものの、外側の泥や澱をとことん流し落とすとそこには、きらきらと穏やかな光を放つ『純粋な思い』だけが残る。


これが知りたくて、私は書き続けるのかもしれない。
このことが分かってしまったから、私は書き続けているのかもしれない。


ノートに掃き出すことを通して、

『純粋な思い』に気づいたら
『純粋な思い』を思い出したら

それだけを基に「行動」を起こせばいい。

例えばこうやって、それなりに「文章化」してnoteにすることだってできる。


「ノート」と「note」を行ったり来たり。
「ノート」と「note」。どちらもあってくれてよかった。


それから新たに、
『言葉にならない思い』を掃き出すには、
『ダイナミック瞑想』がいい!
と知れたこともよかった。


掃き出すのに『安全で適切な場所』を多く持つことで、私は安定できる。


だから、
もやもや ぐちゃぐちゃ 苛々 しそうになったら
誰かや何かに当たりたくなったら

というか、そうなる前に、

黙って 書けよ!!!


誰かに分かってもらおうとするのは、それからにしたら?


誰かに、真に理解してほしいと思うなら、それからでも遅くないし、むしろ、その方が『真っ直ぐ』に届く。






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