「それは私の仕事じゃない」
内田樹『こんな日本でよかったね 構造主義的日本論』を読んでいます。
ここにミスがあるとする。
誰が犯したミスか知らないけれど、放置しておくといずれ大きな災厄を招きかねない。
だから、「私の責任において」これを今のうちに片付けておこう。
そう考えるのが「予防」的な発想である。
「それは私の仕事じゃない」
これがわずかなミスを巨大なシステム・クラッシュに育て上げる「マジックワード」である。
「いいよ、これはオレがやっとくよ」という言葉で未来のカタストロフは未然に防ぐことができる。
けれどもカタストロフは「未然に防がれてしまったので、誰も「オレ」の功績を知らない(本人も知らない)。 (P175~176)
仕事をしていると、「自分がやったわけではない、自分以外に責任がありそうなミス」に気づくことがあるかと思います。
他の人や前任者がやってしまったであろう、まだ大ごとにはなっていないが、放置しておくといずれ大きな問題になりそうなミスです。
そういったミスの対処を引き受けることは、仕事は増えるわりに、あまり感謝されたり評価されたりしにくいものです。
「合理的に」考えると、面倒くさくて、評価も報酬も期待できない仕事をすすんで引き受けることはできません。
自分もそうですが、お客様や上司から言われてから、「自分の仕事じゃないのに」「ミスった本人が対処してくれよ」と思いながら、いやいや対処することが多いかと思います。
それでも、少数ではありますが、自分に責任がなくても「自分がやっておくよ」と言うことができて、評価や報酬も気にせずに他人のミスに対処できる人もいるわけです。
人事評価制度を扱う会社にいるせいか、こういう「自分の責任ではないミスもすすんで引き受けられる人」をどう評価するか、ということを考えてしまいます。
誰もが「これはまずい」とわかる大きな問題を解決できる人も貴重です。
一方、まだ問題になっていない小さなミスや、自分以外の誰かが犯したミスの責任をすすんで引き受け、問題の発生を未然に防げる人も同じぐらい貴重なはずです。
多くの人が「自分の仕事ではない」と言ってやりたがらない仕事をすすんで引き受けられるという点だけ見ても、その人には価値があります。
しかし、そういった「予防」的な行為は、成果として見えづらく、人から気づかれにくいという特徴があります。
とても重要ではあるものの、成果などが見えにくいため、基準や尺度などに基づいて点数化したり、評価したりすることは難しそうです。
「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方途はないと私は思う。
前途遼遠だが、それしか方法はない。 (P.176~177)
「自分の仕事ではない」と言って何もしない人ではなく、「私がやっておく」と言える人が少しでも増えれば、それだけでかなり働きやすくなりそうです。
それと合わせて、「私がやっておく」と言える人や、その人の行為に「気づける人」「感謝できる人」も増やしていければと思います。
具体的な評価や査定にダイレクトに反映させることが難しいのであれば、そういう人には「人からの感謝」という形で報われてほしいと思います。
感謝を受ければ、それが「自分のやったことが誰かの役に立っている」という事実となり、その事実から働くモチベーションを引き出していけるはずです。
少なくとも私は、そういう人に気づけて、感謝できる自分でありたいと思います。
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