美しい日本語とは?(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
キレイな言葉を並べて、キレイなものを表現する。
自分にそんなことが出来ているのか?
いや、出来ていない。
このレビューでさえ、誤字や脱字があるし、同じような言葉が等間隔で、毎回登場してきている。
「言葉には限界があるのだろうか?」
「言葉で表現出来ないものなんてあるのだろうか?」
ふと、僕は考えた。
言葉の組み合わせは無限にあるが、その中で意味が通るものは数少ない。まして、さらにそこで人の心を打つような言葉なんてごく僅かだ。その言葉の組み合わせを作るのは、言葉に対し敏感でないといけないし、相当のセンスが必要になる。訓練でどうにかなるものかもしれないが、それは相当の修行が必要だ。
そして、そのことは小説だけではなくて、詩の世界とも被ってくる。詩ほど、言葉に対して敏感ではないといけないものはない。詩的な言葉を求めるのと、小説的な言葉を求めるのとでは、目的がかわって来てしまうように感じる。
小説は、圧倒的に描写力が試されている。描写をするための言葉、単語、表現力が求められている。
詩は、僕みたいな門外漢が言うのももしかしたら違うかもしれ、感情や心情も入ってくるし、言葉にエネルギーを込めて吐き出すようなイメージがある。だから、詩には即興性的なものができると思う。
どうして僕がこんなことを考えているかというと今回読んだ金井美恵子の『孤独な場所』に感銘を受けたからだ。
物語というものは存在するのだろうが、それよりもそこに書かれている言葉、文章に惹かれた。
こんなことをプロの小説の、ましてや大家の人に対して、言うのもあれだがどうすれば、こんな小説が書けるのか不思議でしょうがなかった。書くと言うよりも描くと言った方が正確かもしれない。無地のキャンバスに絵を書いているような、そして、その絵は絶え間なく動く。
不思議な体験だった。
今まで経験した事なかった。
そうしたときに、自分の言葉の、語彙力のなさに嫌気がさしてくる。どうしてもっといろんな言葉が出てこないのだろうか思ってしまう。
「ウサギさんはいいんですよ、ウサギ節があるんだから、それを極めれば」ともし慰められたらその人を殴ってしまうかもしれない。
自分に足りないのは、描写力だということは重々承知している。その問題を解決したくて、なんとか手を替え品を替えやってきたが、結局成功と言えるものはなかった。
いや、逆に今回の崩れる本棚に投稿した小説の方が新鮮のように感じる人がいるかもしれない。それは読んで頂いてもらって判断して欲しいし、僕のことを知らない人は、こんな人なんだと思って欲しい部分でもある。
この企画自体、ある種の実験を帯びてきた。それは去年成功しなかった本を100冊読むことを、短編100本に変えてみてはどうだろうと思った。100人の作家で読めればいいがさすがにそれは無理かもしれないので、何人かは被って、100本短編読んでレビューを100書いたら意味があるんではないだろうかと思った。
ただ、それはあんまり気が進まない。けっこうな割合を短編に割いていて長編が渋滞を起こしている。だから、やるとなったら、一期と二期とかそういう風に分けて行こうとは思っている。それに小説だって書きたい。レビューされる側に回りたいと思っている。いや、なりたい。だから、今は小説を読んで自分の引き出しを作っているところなのだが、目的が変わってきてしまうので、ある程度きりのいい所でやめたいとは思ってるし、最後にやる作家も決めている。もし、それがだれか分かったらその人はすごい人だと思う。
でも、とりあえず、しばらくは続くのでこれからも温かい目で見てやってください。このノートが段々と変わってゆく様を見てください。
僕は気分屋なので(笑)
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