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作者(あるじ)を僕たちはまっている(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 今日から平常運転です。
 
 小説を読むというのは、どんなに積極的といっても、それは受け身である。
 なに言ってるか分からないと思いますよね。
 まず、読書するためには本を手に入れなければならない。。
 ただし、その本を読むためには、本を選ばなければならない。その選ぶためには、本屋でポップがあるもの、平積みされているもの、ただなんとなしに棚から選んだもの、なんにも知らない状態で行けばそうなるし、テレビやインターネットで得た情報があると、事前に買うものは決まっている。
 本屋で。それを持って、コーヒーショップや電車の中や自宅で読む。ただひたすら文字を追っかけて作品の中の世界を頭の中だけで構築する。だれにもその世界は共有されない。同じものを読んでいても、完全に合致することはない。
 たった一人の中で読書というものは完結してしまう。
 そして、読書は本に書いてあることをただただ読むだけだ。受け身すぎる。作者からも発信されるのは、その本だけで、ときどきメディアで宣伝はあるもの、それ以外は読者が積極的に情報に触れていかないといかない。
 完全とは言わないが、作家と読者は隷属的な関係になっているように思った。
 
 これは僕の考えだが、作者として、読者になんとか積極的に発信できないものかというのは考えた。メルマガが例に上げられるが、結局はnoteという形で自分の言葉を読者から探してもらわないといけない手段で、情報を発信している。
 
 悪趣味とは言わないが、作家の中には、主人公に過度のストレス、たとえば試練など、を与えて物語を冗長的にしていく。
 僕のイメージの中で町田康はそういう作家だ。物語の最終盤まで徹底的にストレスを与えて、最後にそれを一気に解放させる。そのときの読んでいる側としては、イライラしてたまらないが、最後のカタルシスになんか救われた気がする。それが陰残な結果であったとしても。
 
 今回読んだのは『権現の踊り子』という短編だ。読む前から、ちょっと嫌な感じがあった。あぁ、これから精神的なSMがあるのかぁと思った。
 読みはじめると主人公が、生きずらい感じがして閉塞感を抱いている。ただ、町田康の凄いところは、その「嫌な」感じをあまりそうさせない所にある。たとえば、言葉選び、普通の小説家だとチョイスしないようなオノマトペを選んでくるし、人物の形容の仕方も独特だ。それが楽しいところでもあるし、町田康の作品徹底して不条理だ。ある物事の達成のためなら、横槍が入ろうとも達成するために小さくても前進するし、自分の思っていること、実行しようとしていることに疑いを持たない。それは純粋だとも言える。
 
 話を短編に戻すと。最初は主人公はやられていた。弱らされていた。しかし、物語の後半、あることがきっかけで人の上手に出る。散々悪態をついたり、悪口を言ったり。先に書いた町田康の物語の構文に当てはまるのかもしれないが、それにしては話が浅いというか、ストレスになる部分が少ないし、暴力的な部分が多いと思った。
 ある種、これは町田作品の中では例外なのかもしれないと思った。
 
 ところで、作家には、サディストが多いのかマゾヒストが多いのか気になった。
 考え方なのだが、自分の作品、自分の自己満足を見せて満足する人間がいたり、自分は絶対に新人賞を獲るんだという人もいたり、逆にだれにも見せたくないっていう人もいるだろう。サドマゾの二極化の考えが極端なのかもしれないが、「小説」という芸術は、我慢が必要なもので、それはなんだか、「小説」に関わる人たちがマゾヒストに思えるようにも思える。

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