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言われなくてもやってると思うけど、やりたいようにやりなよ(ウサギノヴィッチ)

どうも、ウサギノヴィッチです。

小説、特に純文学に登場する主人公は大体コンプレックスの塊みたいな人間が多いような気がするなぁと思います。
そうすることで、同じ悩みを持つ読者の共感を呼んだり、違う思想の人にインパクトを与えるというのがあるのではないだろうかというのがあります。
それに、悩みがない人間が登場することに進むのはエンターテイナー的な話で、敵が出てきたら戦ったり、仲間と交流したり喧嘩したり、まぁ、なにも考えてないわけではないけども、物語はスイスイ先に進んでいくのではないだろうかと思う。
一方で、純文学は既存の価値観に別の価値を見出すことが目的でもあるので、主人公の考えがどのようなものなのかを読者に提示していかないといけないし、物語もそれに合わせて主人公になにかしらの影響を与えるものではなくてはならない。
構造として純文学もエンタメも結局は同じじゃないかと思ってしまうのは、きっと今この文章を読んでいる「あなた」だけではなく、ぼくもそうだ。
ただ、使命感的なものが違うし、結局のところ文体みたいなスタイル的なものも違ってしまう。
それをうまく説明できることができないのがもどかしいのだが、純文学には「枠がないこと」が枠があるようなものだし、エンターテイメントだって読者に新しい価値観を与えるような作品はある。
結局のところ、その線引きはどこにあるのかは、インディーズだと書いた本人だし、プロになると編集者によるものだと思う。

さて、長々と熱く語ってしまったが、今回の作品は大江健三郎の『セブンティーン』だ。
政治色が強い作品だが、大江の思想は左だが本作の主人公は右に傾くという、作家の思想とは逆張りにいっているので面白いところになっている。
主人公の家がもともと右の考えなのだが、主人公は当初は左で家では浮いていたし、家人には乱暴な人間だったが、十七歳を迎えて右の活動家のサクラに行ったら、頭の中で開花するというお話だ。
本文は一人称で、非常に鬱屈した文体や、自涜することでしか自分を慰めることができずにいる可哀想な主人公がものすごく惨めな感じがする。
後半、活動家のサクラで演説を聞いていたら、だんだんトランス状態に陥り、右の人間に間違われても、それで火がついて自分のこと中でドンドンと気持ちが湧いてくる。最終的には活動グループの仲間になる。

この話はそんな感じで終わっています。
コンプレックスに塗れていた主人公があるふとした瞬間からだんだん勇気を持つ、成功譚みたいな話になっている。
でも、これは政治の話が絡んでいる。
これは続きがあって、今は全集では読むことはできるようになったが、当時は学生運動とかの関係で大変思想的に危険なものを孕んでいていたらしい。

話が、脇道に逸れるが政治と文学は切り離されるべきなのか? と少し考えた。
ぼくは、文学は芸術だと思う。そこに政治的なものは入れるべきではないと思う。
芸術とは自由であるべきものだからだ。それは何人にも干渉されない広いスペースだと想像しているからだ。
検閲がうんたらかんたらとか、政治家に媚び諂うとかではなく、自分の好きなものを好きなように書くべきだということだ。
だから、政治的なものを書きたい人がいたら書けばいいとは思う。
ただ、それだけだ。

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