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The Libra:SNS上での「議論」という虚無について

表紙画像:mohamed HassanによるPixabayからの画像

▼The Libra:エセー

 日々のことについて思いつくままに書いていく,マガジン「The Libra」より.今回のテーマは,ふとTwitterのトレンドやTLを眺めてて思った,SNS上での議論について.(タイトルにもあるように)SNS上での「議論」の虚無さ――あるいは不毛さ――についての覚書(自分への戒めとしても).

◇意見のドッジボール

 「SNS(主にTwitter)上で議論しようと思わないほうがいい」

 貴方が,(SNS上で)自分の主張が相手の意見や価値観を変えられる,と信じているならば,それは間違いだ――ある種,傲慢といってもいい.また貴方が,限りある自分の時間を大事にしようと思っているなら尚更だ.
 決して,お互いに相手の意見に耳を傾けようとはしないし,そのイデオロギーや価値観,文化を認めようとはしないだろう.少なくとも,議論をふっかけてきた当人はそうだ.いわば,「意見のドッジボール」である.
 そうした手合いは,すでにその議論の対象に対して強力なバイアスを持っている場合がある(特に語気を強めている場合).そうした“鉄壁”が,たかだか140文字のツイートごときで崩せるとは思わないほうがいい.

 そもそも,SNSは議論に向いていない.140文字ぎっしりと文字の詰まったツイートなど,相手がいちいち読んでいるだろうか?――もちろん,エンタメやグルメ,旅行記やためになるライフハックなど,面白いものは別だ.
 よく考えてみてほしい.相手に対して長文のツイートを送りつけたところで,その相手は,(その相手)自身が嫌う価値観や文化,思想を主張するその文章をすべて読んで,ましてそれを「理解」しようとするだろうか? おそらくだが,期待しないほうがいい.
 意見のドッジボールである以上,その長文ツイートの行き先は,ポストからゴミ箱である.ただただ不毛なのである.たしかに,ツイートのリプライ機能を使って,140文字以上にわたって意見の続きを主張することはできる.だが,文字数が増すにつれて,なおさら相手は読もうとしなくなるだろう.相手はそのようなことを望んでいないからだ.
 相手が望んでいるのはただひとつ,他者が自分の意見に屈服することであって,反論などでは毛頭ない:よりシンプルに言えば,“意見を主張すること”が目的であり,その主張への賛同の声である(それが自己承認欲求を満足させることにもつながる).反論はすべて鬱陶しいノイズであり,聞く耳など持ち合わせていないのである

 そして,こうしたSNS上での議論で危険なのが,「自分は大丈夫」と思っている人である.だが,ひとたびそうした相手に出くわし,(誰の要請も受けていない自身の正義感に駆られて)不毛にも「議論」しようと試みれば,同じ「程度」に落ちることになる――喧嘩は同じレベルでしか生じない,ということである.
 利口な人間は,そうした結果になることが自明であると理解しているため,そもそも近づこうとしないだろう.君子危うきに近寄らず,である.わざわざ首を突っ込むことなく,冷静に素通りするのが一番,双方にとって利益になる(場合にもよるが,SNS上での“議論”で根本的な問題の解決を期待する方が間違いだろう).

◇議論のルール

 あくまでも個人的な意見だが,以下に議論を行うための必要不可欠な前提条件について確認しておきたい.

[必須前提条件]
1)感情的ではなく,あくまでも理性的な姿勢を心がける.
2)相手の意見を否定しない.あくまでも建設的な議論を.
3)主張の立場が異なっていても,相手の主張を理解しようと心がける.

[必須補完条件]
1)議論のテーマについて相互に定義を確認する.

[準必須条件]
1)オフラインで行う.
2)上記が難しいのであれば,せめてビデオ通話のようにオンラインでも互いに顔を合わせる.

 上記の前提条件がすべて揃っていなければ,議論は成立しないと私は考えている.また,必須の前提条件ではないものの,できれば実際に会って“オフライン”で議論をした方がいい(それが無理ならば,せめてビデオ通話のようにオンラインでも互いに顔を合わせることが望ましい).直接対面した方が,顔の見えない相手に対するものよりは抑制が効くかもしれない:もちろん,議論が白熱してリアルファイトに発展する可能性は排除できないが,それを防ぐために,上記の前提条件が存在している.
 加えて,議論する前には,その議論のテーマについてお互いに定義を確認しておくことだ.議論において,定義の齟齬は往々にして失敗の原因である.その齟齬の蓄積が徐々にお互いを苛立たせ,感情論へと発展し得る.

 個々の条件について詳論すると長くなるため省くが,要は「同じ場所に立ち,相手の意見を真摯に聞き,理解する姿勢」である.議論を行う上で,双方がこの姿勢を備えて臨まなければならない.

 SNS上であっても,上記の前提条件が揃っていれば,「議論」は可能かもしれない.だが,あまり期待しない方がいい.よほど恵まれていなければ,前提条件を揃えることは困難であるし,仮に揃えることができるのであれば,そもそもSNSを通じて行う必要性はない
 SNS上では,容易に大衆の目に触れることもあり,第三者による(求めていない)介入をまねくことにもなる.「議論」は,それに参加する人数が増加するほど,そこにカオスが生じ,境界線は曖昧になり,収拾がつかなくなっていく.「議論」したければ,人数をできるだけ制限しそして前提条件を十分に意識しておくことである:個々人の知性の,集団による平均化という低下,集団化による推論の幼稚化は,常に懸念事項となる.

 以上のことは,SNSだけの留まらず,他の場面でも適用し得るものがあるだろう――不毛なものに限りある時間を浪費することは,何にも増して悲劇なのだ.
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