「作品に罪はあるか」論争についてちゃんと考えてみた


鴨 公平(かも こうへい)と申します。
働きながら、「屈辱と春」(くつじょくとはる)というバンドでベースボーカルをしています。
また、こどものうたづくりにも挑戦しています。最近アップした曲は「さつまいも」という歌って踊れるふざけた曲なので、こちらから是非聞いてみてください。

note では、デモ音源をアップしたり、音楽にまつわることやまつわらないことを気ままに書いていこうと思います。


はじめに

ということで、今回の記事の本題に入る(ですます調をやめる)。

ここ最近、「犯罪者や容疑者、不祥事を起こした者が作品に関わっている場合に、公開や販売を中止・自粛すべきなのか?」がよく議論されている。
いわゆる「作品に罪はあるか?」論争だ。
僕も、10年以上バンドをやっていることもあり、特に音楽関係でこの話題に関心があった。
主な具体例は、下記の記事を読んでいただきたい。


映画製作中に出演者が不祥事で逮捕…異例の“撮り直し”を経験したプロデューサーと考える、“作品と罪”

松本人志、“作品に罪はない”に疑問「俺が例えば…」

作品に罪はあるか 映画出演者が不祥事、ファン「お蔵入りやめて」

「不祥事芸能人の出演シーン」をカットしなかったフジテレビはえらい

逮捕された俳優の出演作品、このままだとお蔵入り?過去作まで封印すべきなのか


僕は、この記事を書き始めるまでは、視聴者・製作者側の立場で、漠然と「作品に罪はない」側の人間であった。
ただ、考えがあまりにも漠然としていてずっとモヤモヤしていたので、改めて「作品に罪はあるか?」問題を考え直してみることにした
浅はかであることは承知であるものの、色々な記事等を読んで少しは考えが深まってきた気もするので、せっかくだから note に記録を残す。
稚拙な文章についてはご容赦願いたい。

この記事には、これまでにない斬新な主張はほとんど含まれず、多くの記事を引用し参考にしている。
この記事を書くにあたって注力したのは、「作品に罪はあるか?」という問いの意味、様々な立場の方々の主張、及びそれらを踏まえたこの問題の解決策を整理することだ

現時点での僕の考えをまとめると、下記の通りである。

・犯罪者等が関わった作品の販売・公開を安易に自粛することは避けるべき
・犯罪者等が関わった作品の販売公開の場を制限し、「見たくなければ見なければいい」を実現する
・犯罪者等が関わった作品の収益の一部を被害者らやその支援団体へ充てる
・現状にマッチした法令・ルールを明確に設けるとともに、作品を愛する者は作品への愛を強く表明し、「叩きたい者」による私刑を撲滅する


なお、以下では、「犯罪又は不祥事」を「犯罪等」と、「罪を犯した又は不祥事を起こした人間」を「犯罪者等」と表現することにする。


問題の整理① 「罪のある作品」とは何か?

まず、この記事で取り扱う作品がどのようなものかを念のため整理する。

そもそも、「罪のある作品」とはどんな作品を指すのだろうか?
かなり難しい問題だが、ここでは、「罪のある作品」とは「誰かに苦痛をもたらし得る、又はもたらしている作品」であると仮定する
誰かがある作品を見たり聞いたりすることによって苦痛を感じるからこそ、「その作品には罪がある」可能性が生じるはずだからだ。

「誰かに苦痛をもたらし得る、又はもたらしている作品」は、下記の2点に区分できると考える。

1. 作品の内容により苦痛をもたらし得る、又はもたらしている作品
2. 作品の内容と関係ない事情で苦痛をもたらし得る、又はもたらしている作品

この2点の違いをもう少し詳細に。

1. 作品の内容により苦痛をもたらし得る、又はもたらしている作品
・侮辱的・差別的・残虐な内容の作品
・デマや犯罪等を誘発する作品 (似非科学、似非宗教、自殺・他殺の手法等)
なお、これらの作品は、犯罪者等がつくった作品とは限らない。

2. 作品の内容とは無関係に苦痛をもたらし得る、又はもたらしている作品
・犯罪者等の姿が写っていたり、肉声が聞こえる作品 (映画、テレビ番組、お笑い、音楽等)
・犯罪者等の姿や肉声は含まれないものの、犯罪者等が関わっている作品 (絵画、彫刻等)
・犯罪等と密接に関わっている作品 (犯罪者等が特に好んでいたり影響を受けたことが知られる作品等)
上記の作品は、「犯罪者等が関わる作品」と言い換えられる。
内容から直接的に苦痛がもたらされる訳ではないが、加害者や受けた被害を思い出すことにより苦痛を感じる可能性のある作品を指す。
なお、これらの作品には、犯罪者等が犯した犯罪や不祥事の内容が含まれているとは限らない。

上記2点をしっかり区別しないと、論点が整理されないと思う。

今回は、2点目の「作品の内容と関係ない事情で苦痛をもたらし得る、又はもたらしている作品」すなわち「犯罪者等が関わる作品」に論点を絞ることにする。


問題の整理② 「作品に罪はあるか?」という問いはどういう意味か?

次に、「作品に罪はあるか?」という問いの意味をもう少し整理する。
「作品に罪がある、ない」という表現はあまりにも抽象的であり、人によって異なる意味でこの言葉を捉える可能性があるからだ。
言葉の意味をはっきりさせないと議論が食い違うし、問題の解決にも至らないであろう。

僕は、「作品に罪はあるか?」という問いには続きがあると考える。
すなわち、「作品に罪はあるか?罪があるならば、その作品はどのように処分されるべきか?」までをワンセットの問いとすべきと考える。

「作品に罪はあるか?」論争をしている人達は、作品に対して「罪がある」又は「罪がない」と認定したい訳ではないのではないか。
結局のところ、「作品に罪はある」と考える人達は、それらの作品に対し何らかの処分をしたくて、「作品に罪はない」と考える人達は、これまで通り作品を楽しめる状態が保たれてほしいのではないか。

つまり、「作品に罪はある、ない」という抽象的な問いを議論してもあまり意味がなく、「もし作品に罪があるならば、その作品をどのように処分すればよいのか」ということまでを議論する必要がある

ここでいう「処分」として最もわかりやすい例は、「罪のある作品をこの世から (一時的又は永久に) 無くすこと」、具体的には作品の公開・販売の中止、自粛等であろう。
例えば、不祥事を起こした俳優が出演している映画の公開中止や出演シーンの差し替え等は頻繁にされている。

以上をまとめる。
当初の問いは「作品に罪はあるか?」であったが、以下では「犯罪者等が関わった作品は処分されるべきか?処分されるべきなら、どのように処分されるべきか?」という問いについて考えることにする。

法的にはどうか?

犯罪者等が関わった作品を販売公表することは、法的に問題はあるのだろうか?
この論争に関連する著作権法等の法令について十分な知識がないものの、下記の記事によると、犯罪者等が関わった作品を販売公表することは、基本的には法的に問題ないらしい。
しかし、例えば映像作品の場合、出演契約上は問題ある場合が多いらしい。

映画・ドラマはなぜ出演者の不祥事で“上映中止”になるのか? 弁護士に見解を聞く

「不祥事を起こした人物の映った作品を公開すること自体は、法的には特に問題はありません。とはいえ、逆に俳優の方から自分のシーンがカットしないよう要求する法的権利があるわけでもありませんし、俳優の出演契約では作品や企業のイメージを損なうような行為は禁じているはずです。」


「不祥事×作品封印論 ~犯罪・スキャンダルと公開中止を考える」

多くの出演契約には(いや時には脚本・演出契約にさえ)「犯罪、公序良俗違反、信用を失墜させる行為は行わない」といった規定が存在している。仮にそうした規定がなくても、本当に俳優やスタッフが犯罪や公序良俗違反の行為をして、その直接の結果として作品の公開や舞台の公演中止が避けられなくなれば、恐らく立派な契約違反だ。それによる損害の賠償責任などを負うこともあり得る。」
「通常は仮に犯罪行為が事実であったとしても、児童虐待や盗作のように作品そのものの中に違法の要素がある場合を除けば、それによって公開中止や公演中止が義務づけられる訳ではない。


逮捕された俳優の出演作品、このままだとお蔵入り?過去作まで封印すべきなのか

テレビ局等が適正な出演契約に基づいて作品を制作・展開しているかぎりは、俳優側との関係で販売を止める義務はありません。また、逮捕されたからといって、その俳優が罪を犯したことが確定するわけでもありません(短期間で釈放されたり、起訴猶予になるケースも多数です)。俳優自身に犯罪や公序良俗に反する行為があったのは間違いなさそうなケースでも、作品の販売を中止しなければならないという「法的な義務」は、コンテンツ提供者側には通常ありません。


意見① 被害者らの苦痛

ここから、「作品に罪はあるか?」論争に関する代表的な意見や風潮等を整理する。


まず、「犯罪等の被害者や同じような体験をした人間に苦痛をもたらす」という意見が、「作品に罪はある」側の最も一般的かつ大きな意見であると思う。
僕自身は大きな犯罪に巻き込まれたことがないので、「僕の家族を殺した人間が生み出した作品に対し、僕はどう思うのか」を想像してみた。

※いくら想像したところで、被害者の方々の感じる苦痛には到底及ばないのはわかっているし、こんなチンケな想像をここに書くことに罪悪感すら感じる。
それでも、まず想像することから始めなければいけないと思い、この文章を書いている。

〜〜〜〜
耐えられない苦しみを味わっている中、気を紛らわすためにテレビを付けたら、たまたま僕の家族を殺した人間がつくった曲が流れていたとする。
きっと、愛する人を失った苦しみや犯人への憎しみが何倍にも増幅するのだろう。
テレビをぶっ壊して、二度とテレビを見られないようにしてしまうだろう。
それでも頭の中ではその曲がグルグルと繰り返し流れ続け、夜も眠れなくなるだろう。
そして、犯人のつくった音楽を楽しんでいる世間に対しても、不信感や怒りが生まれてしまうかもしれない。
〜〜〜〜

多くの視聴者やクリエイターも、僕と同じく犯罪等に巻き込まれたことがないであろうから、犯罪等の被害者の思いを十分想像することなく、作品を楽しみたい気持ちが優ってしまうこともあるだろう。
しかし、「作品に罪はあるか?」問題を考える上で、被害者らの苦痛とどのように向き合うか考えることを避けては通れない。


意見② 個人の犯罪等と作品に関係はあるのか?

次に、「個人の犯罪等と作品に関係はあるのか?」を検討する。

クリエイターや作品を楽しむ視聴者は、「個人の犯罪等と作品に関係はない」という意見を持っていることが多いように思う。
多くの視聴者は、犯罪と切り離して純粋に作品を楽しんでいるであろう。
また、クリエイターの立場では、例えば下記の声明において、「多くのクリエイターが「作品そのものには罪はない」として、過度な自粛に異議を唱えています」と述べられている。

【声明】芸能人の不祥事等によるドラマ・映画等の放送、CD等発売の自粛について(日本エンターテイナーライツ協会)

一方で、「犯罪者等のつくった作品を楽しむことや、販売・公開することは、犯罪等を認めることになる」という意見もある

例えば、音楽と薬物には歴史的に密接な関係があるらしい。
僕の好きなバンドや一世を風靡した偉大なバンドの中にも、薬物中毒者 (中毒から立ち直った者を含む) が少なからず存在する。
少なくとも現在では、薬物を誰かが違法なルートで買って摂取することにより、僕自身が直接迷惑を被ることはなくても、違法に薬物を売っている者の収益になる。
僕自身は薬物に関わる犯罪を擁護しているつもりはない。
しかし、薬物中毒者のつくった音楽を楽しむ僕は、そのつもりはなくとも内心では薬物に関わる犯罪を認めているのだろうか?
また、側から見ると僕は薬物に関わる犯罪を認めていることになるのだろうか?
難しい問題だ。

また、作品を作ったり出演しているスター性のある人間が薬物を摂取していると、そのスターに憧れた視聴者が真似て薬物を摂取することを助長する、という意見もある。
僕は正直、作品は作品であって、犯罪等を真似るのは作品のせいでなくて各家庭の教育の問題だろうと思うが、このような意見があるということは考慮する必要がある。

松本人志、“作品に罪はない”に疑問「俺が例えば…」

松本は、「見てくれがいいでしょ? これも罪なところがあって、『かっこいいな』って思う人たちがね。どうせ警察署の前で何日後かに出てきて、黒いスーツに身を固めて『この度は……』みたいな。絶対にその時もかっこいいよね。その時にもうちょっと鼻くそそよがしたり、チャック全開とかにしとかんとアカンと思う」と冗談も交えつつ、「またカッコイイ感じになっちゃうぞ、大麻」「それに憧れる若者が出ないとも限らない。そこの罪がある」と危惧。

作品の販売や公開を自粛する背景には、「犯罪者等が関わる作品を販売・公開する=犯罪を認めた」と批判されることを避けたいスポンサー等の意向が関係しているのだろう。

映画・ドラマはなぜ出演者の不祥事で“上映中止”になるのか? 弁護士に見解を聞く

映画やドラマに出資している企業は、昨今のコンプライアンス意識の高まりを受けて、レピュテーションリスク(企業に対する否定的な評価や評判が広まることによって、企業の信用やブランド価値が低下し、損失を被る危険度)に敏感になっています。そのため、不祥事や事件を起こした人物との関わりを非常に嫌うのです。この背景には、インターネットが普及し、多くの人々が自由に発言できるようになったことの影響が少なからずあるでしょう。企業が不祥事との関わりを顧客から指摘されて大きな話題となれば、結果的に大きな損害となる可能性がありますから


さらに、視聴者が作品へ課金することにより、作者(=犯罪者等)の収益となってしまうという問題もある。
犯罪と作品を切り離して、純粋に作品を楽しむ目的であったとしても、作品へ課金することにより、結果として犯罪者等を支援することになってしまう

【アクタージュ絶版】連載終了出荷停止へ…作品に罪はあるのか。漫画家として考える。

以上のことをまとめると、現時点では「個人の犯罪等と作品に関係はない」とは言い切れないのかもしれない。


最近の風潮 犯罪者等が関わった作品に対しては何をしても良いのか?

SNSが力を持つ昨今、「犯罪者等や、犯罪者等が関わった作品は徹底的に叩いてよい」という風潮が目立つ。

「犯罪等の被害者や、被害者と同様の経験をした者が作品の販売・公開に対し声をあげること」、「犯罪等の被害者を思いやって犯罪者等を批判すること」及び「愛するアーティストが犯罪等を犯したことが許せず批判・叱責すること」は、あってしかるべきと思う。

僕が許せないのは、「自分の人生がうまくいかない妬み・不満・鬱憤等を晴らすことを目的として、大して思い入れのない者や作品を徹底的に叩く」風潮だ。
これはただの暴力で、批判でもなんでもない。
また、「叩きたい者」の手により、僕の愛するアーティストの生み出した作品や未来に生み出されるであろう作品が抹殺されるのは納得できない。
しかも、このような暴力的な声をスポンサーらが無視できず、結果として作品の公表や販売を自粛させるという「私刑」に成功してしまっているからタチが悪い。
被害者らがあげた声と、作品に興味がないにもかかわらずただ叩きたいだけの人間があげた声を一緒にすべきではない。


また、犯罪者の社会復帰や社会貢献のことも考えなければいけない。

芸能界は犯罪者に甘い」とよく言われる。

「芸能界は甘い」「犯罪者をテレビに出すな」社会復帰後、ネット上で批判を集めた3人

「芸能界は甘い」「チャンス与えるべき」薬物タレントの芸能界復帰“アリかナシか”を100人調査

しかし、例えば、犯罪を犯した音楽家が社会復帰するには、人生のほとんどを費やしてきた音楽活動以外の道は限りなく少ないであろう。
犯罪を犯した音楽家ができる最大の社会貢献は、その才能を活かして素晴らしい音楽を生み出すことであろう。
また、犯罪者が作品を生み出し世に出そうとする権利までを奪うことはできないであろう。

「不祥事芸能人の出演シーン」をカットしなかったフジテレビはえらい

豊かな社会と文化は、様々な人間の多様性を認めた上に成り立つものだ。「この人は過ちを犯したけれども、私はこの人が出演するテレビを見たい」という人が多ければ、その出演者に再びチャンスが巡ってくる。
そんな社会こそ、成熟した豊かな社会といえるのではないだろうか。

「芸能界は犯罪者に甘い」と言われるが、芸能の才能がある者にとっては、芸能を続けて優れた作品を生み出すことが最大の社会貢献であると思う。

クリエイターにとっての社会復帰・社会貢献の手段である作品を世に出さないことによる弊害は無視できないと考える。


何が問題なのか?どうすればよいか?

以上の意見や風潮を踏まえ、「作品に罪はあるか?」問題、すなわち「犯罪者等が関わった作品は処分されるべきか?処分されるべきなら、どのように処分されるべきか?」という問題の解決策を考える。
まず、それぞれの立場の意見・主張を(誤解を恐れず強引に)下記のようにまとめてみた。


犯罪等の被害者: 犯罪者等が関わった作品を見たり聞いたりすることにより苦痛を感じる

作者: 作品を世に出したい、犯罪等を犯した作者を社会復帰できるようにしたい

視聴者: 様々な作品を犯罪と切り離して楽しみたい

スポンサー: 「犯罪者等が関わる作品を販売・公開する=犯罪を認めた」と批判されることを避けたい

叩きたい者: 犯罪者等やその作品は徹底的に叩きたい

この中でまず第一に考えなければいけないのは、犯罪等の被害者らの苦痛を取り除くことだ。
そのための最もわかりやすい解決策は、「犯罪者等が関わった作品をこの世から無くす」というものであろう。

しかし一方で、僕は、音楽に長年携わっていることもあり、作品をこの世から無くすこと以外の解決策、すなわち「犯罪等の被害者らを守り、かつ犯罪者等が関わる作品も守る」ための解決策を何とか見出したいと考える。

多くの人手、時間、金をかけてようやく完成した作品が無かったことにされるクリエイターの苦しみを無視したくない。
様々な作品をこの世から無くしてしまうことにより、視聴者や全ての人類が被る社会的不利益を無視したくない。
犯罪者等の社会復帰の可能性の一つを安易に奪いたくない。

犯罪の被害者らを思いやるのは当然だが、犯罪の被害者ら以外の立場の方々も納得できる方法を模索したい
具体的には、下記を実現したい。

犯罪等の被害者: 犯罪者等が関わった作品を見たり聞いたりすることにより苦痛を感じる
 →被害者ができる限り犯罪者等が関わった作品を見なくて済むようにする
作者: 作品を世に出したい、犯罪等を犯した作者を社会復帰できるようにしたい
 →犯罪等の被害者に苦痛をもたらさずに作品を発表できる場を設ける、クリエイターとしての才能を社会復帰に役立てる
視聴者: 様々な作品を犯罪と切り離して楽しみたい
 →作品を応援しやすくする
スポンサー: 「犯罪者等が関わる作品を販売・公開する=犯罪を認めた」と批判されることを避けたい
 →作品の公開・販売に関する明確なルールをつくる
叩きたい者: 犯罪者等やその作品は徹底的に叩きたい
 →私刑を認めない


「犯罪等の被害者らを守り、かつ犯罪者等が関わる作品も守る」ためには、既存の慣習を見直し、現状にマッチした法令やルールを明確に定め直すべきであると考える。
ここから、考えられる解決策を述べる。


解決策①「見たくなければ見なければいい」の実現

1つ目の解決策は、犯罪者等が関わる作品を公開販売する場を限定するという方法だ。

「作品に罪はない」と考える視聴者側からよく出る意見として、「見たくなければ見なければいい」というものがある。
つまり、犯罪者等が関わる作品を楽しみたい者は楽しんで、関わりたくない者は関わらなければ良い、という意見だ。
色々な作品を楽しみたい視聴者がそう言いたくなる気持ちは、とてもよくわかる。

「不祥事芸能人の出演シーン」をカットしなかったフジテレビはえらい

自分が嫌な番組は、見なければいい。「この人は過ちを犯したから不快だ」と思うなら、見ないというのも一つの意思表明だ。見ない人が多ければ、その出演者はいずれ淘汰される。

例えば映画や書籍といった、視聴者が能動的に作品を選択して視聴する作品では、「見たくなければ見なければいい」という理屈は成立する。
一方で、例えば音楽は、CDやYouTube等、視聴者が聴く音楽を能動的に選曲できるメディアだけでなく、テレビ番組、ラジオ、店のBGM等、いつどんな音楽が流れるかわからないメディアも多く存在する。
したがって、「犯罪者等が関わったある音楽を聴かないようにする」といくら努力をしても、そういったメディアから不意に流れる音楽まで遮断することは不可能だ。
かといって、「そういう人はテレビを見ることをやめれば良い」というのはあまりに乱暴すぎる。

「見たくなければ見なければいい」を実現するためには、下記の対策が必要であろう。
・テレビやラジオ、広告等の視聴者が能動的に作品を選択できないメディアで、犯罪者等が関わった作品を使用できなくする
・書籍や映画等の視聴者が能動的に作品を選択できるメディアでは、犯罪者等が関わった作品を公開販売して良い (ただし、作品の宣伝には何らかの規制や制限が必要かもしれない)
・犯罪者等が関わった作品を公開販売するための店舗、プラットフォームを整備する

上記の対策により「見たくなければ見なければいい」をより完璧に実現すれば、犯罪等の被害者らが作品等を見たり聞いたりするリスクを極限まで減らすと同時に、作品を純粋に楽しみたい者は引き続き作品を楽しむことができる。
また、クリエイターにとっては、犯罪者等が関わる作品を発表する場ができる。
さらに、作品発表の場に制限を設けることにより、作者やスポンサーに対する批判を抑える効果も期待される。

なお、販売・公開を制限する基準については慎重に検討する必要があるだろう。
決して、作品の優劣や好き嫌いによって基準を設けられるようなことがあってはならない(叩きたい者による私刑のように)。
あくまでも、犯罪や不祥事の種類に基づいて基準が設けられるべきである。


解決策②収益の一部を被害者の支援に充てる

2つ目の解決策は、犯罪者等が関わる作品の収益の一部を、被害者らの支援に充てることだ。


先に述べた通り、犯罪等を犯したクリエイターができる最大の社会貢献は、作品をつくることである。

その収益の一部を、法令に基づいて被害者らや支援団体等の支援に充てることにより、作品を販売すること自体が犯罪者等の償い、社会貢献になるのではないか。


【アクタージュ絶版】連載終了出荷停止へ…作品に罪はあるのか。漫画家として考える。

また、犯罪等と作品を区別し、純粋に楽しみたい者は、心置きなく作品を楽しむことができるようになるというメリットもある。
さらに、作品の公開販売が社会貢献につながるというルールを示すことにより、作者やスポンサーに対する批判を抑えられるであろう。

なお、収益の何割を支援に充てるのか、犯罪の種類によって割合を変えるべきなのかについては、慎重に検討する必要があろう。

解決策③「叩きたい者」による私刑の撲滅

3つ目の解決策は、「叩きたい者」による私刑を撲滅することである。

人の罪は、法律に基づいて裁判により裁かれる。
法律や罰則は、歴史的経過や絶え間ない検討・研究により定められている。
作品についても同様に、慎重に厳密に処分の基準が設けられるべきである。
にもかかわらず、現状のルール・慣習のもとでは、一部の「叩きたい者」の声にスポンサーが過度に怯えて公開販売を自粛することにより、「叩きたい者」による私刑が成立してしまっている。
「叩きたい者」のストレス発散のために、犯罪者等やクリエイターの権利が不当に侵害されるだけでなく、作品が葬られ社会的損失にもつながっている。

また、一部の「叩きたい者」の声が目立ちすぎるが故に、被害者らや作品を愛する視聴者の声が作者やスポンサーへ届きにくくなっている。

「叩きたい者」による私刑を撲滅するためには、解決策①や②により、多くの人間が納得のできる法令・ルールを明確に定めた上で、作品を世に出す側がルールに従って堂々と販売公開できるようにする必要がある
もちろん、法令やルールを加味してもなお理念に基づき販売・公開を「自粛」するという選択肢もあり得るだろう。

作品に罪はあるか 映画出演者が不祥事、ファン「お蔵入りやめて」

なぜ公開するのか、あるいは自粛するのか。制作側は理念に基づき、分かりやすい言葉で伝えるべきだ。作り手の思考停止は、芸術表現そのものの萎縮につながりかねない


また、作品を愛する者は、「叩きたい者」の声よりも力強く、作品への愛を表明すべきだろう。
個人的な印象として、日本の SNS では、ネガティブな意思表示に比べてポジティブな意思表示が少ないように感じる。
だからこそ、一部の「叩きたい者」の声が目立ってしまっている。
作品と犯罪等を切り離して純粋に作品を楽しみたい者は、作品を守るために、積極的にポジティブな意思表示をすべきだ。


結論

最後に、「作品に罪はあるか?」問題、すなわち「犯罪者等が関わった作品は処分されるべきか?処分されるべきなら、どのように処分されるべきか?」問題について、改めて僕の考えをまとめる。


・犯罪者等が関わった作品の販売・公開を安易に自粛することは避けるべき
・犯罪者等が関わった作品の販売公開の場を制限し、「見たくなければ見なければいい」を実現する
・犯罪者等が関わった作品の収益の一部を被害者らやその支援団体へ充てる
・現状にマッチした法令・ルールを明確に設けるとともに、作品を愛する者は作品への愛を強く表明し、「叩きたい者」による私刑を撲滅する



僕は、芸術作品について詳しい訳では全くないし、人生経験豊富な訳でもないし、知らないこともたくさんある。
他の意見を伺うことにより、考えが改まるかもしれない。
しかし、音楽に携わり音楽を愛する者として「作品に罪はあるか?」問題について考えを深めることができたことはかなりの収穫であった。

万人が納得のできるルールをつくるのは不可能であろうが、現状に出来る限りマッチした法令・ルールをつくり、作品に触れたくない者は触れずに済み、作品を楽しみたい者は楽しめる社会の実現に期待したい。

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