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技術バカだった私の仕事観を180°変えた言葉

こんなことを言ってはなんですが、若い頃の私は、「お客様」や「顧客ニーズ」、もっと言えば、「製品が売れるかどうか」なんてどうでも良かったように思います。新しい技術を開発し、「製品に実装すること」が私の仕事のモチベーションのすべてでした。


私は、1989年に松下電器産業(現・パナソニック)に技術者として入社しました。

趣味のオーディオをやりたいと思っていたのですが、大学・大学院でデータアクセスに関する研究をやっていたこともあって、最初に配属されたのは情報通信関西研究所(当時)という部署でした。最初の仕事は、ワークステーションにおけるTeXという文書処理システムの管理と、先輩の指導のもとでそれを使ったアプリケーションを開発するという仕事でした。

以降、20代から30代は、ソフトウェア技術者としてさまざまなアプリケーション開発に打ち込んでいました。

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技術者のサガ?

入社したての若い頃は、仕事でもうまくいかないことがたくさんありましたが、当時は、「なぜうまくいかなかったんだろう」、「どうやったらもっとうまくいくんだろう」といった振り返りもせず、「また頑張ればいい」くらいにしか考えていませんでした。

当時は、自分のアイデアや新しく開発した技術を形にすることにしか興味がなく、「良いものをつくればいつか認められる」という考えしか持っていなかったのだと思います。

いま振り返ると、当時の上司や先輩が、度重なる私の失敗を許容しながら、次々とより大きな挑戦の機会を与えてくださっていたのだと、ありがたく思っています。

しかし、ただひたすら「新しい技術を開発して、いつかは製品に実装する」ということだけを考えていた新卒~30代前半までの私は、(自分では相当な努力をしたつもりではありましたが)結局、世の中に広く普及する製品に実装されるような技術開発はできませんでした。


技術バカだった私の仕事観を180°変えた言葉

1997年の頃(だったと記憶) 、デジタル放送の波がやってきたとき、NHK放送技術研究所から、BSデジタル放送(データ放送)の技術開発に関する相談が舞い込みました。

それは、2000年から開始するBS放送のデジタル化に際して開始するインタラクティブサービスとして、「データ放送」の準備を進めたい。ついては支援に入ってくれないか、という打診でした。

もちろん、BSデジタル放送は国の基幹放送ですから、当社以外に業界の大手企業も名を連ねていました。

多くの企業を巻き込み、基幹放送で様々な情報を配信して対話的 に利用するサービスの標準規格をゼロからつくりあげる壮大なプロジェクト。

「家庭の真ん中、お茶の間の一番中心にあるテレビの未来につながる技術を開発できる」、「デジタル放送時代の幕を開けるべく、日本の標準規格をつくる!」、「それまで自分が技術者としてやってきたことを結実させる場だ!!」

その話を聞いたときの興奮を、いまでも鮮明に覚えています。

* * *

1997年当時は、いまのようにスマホもなく、日本におけるインターネットの人口普及率が10%にも満たない時期でした。

テレビと紙の新聞が家庭における主要な情報源だった時代です。

そのテレビに、従来の映像放送だけでなく、データ(テキストや画像)を用いて、より多くの皆さまに情報を届けることを実現する取り組みに、自分と自分のチームが培ってきた技術を活かすことができる――。

技術者にとって、こんなにも心が踊り、開発者魂に火を付ける一大プロジェクトなんて、そうはありません。

一方、BS放送は日本の基幹放送ですから、そこで行われるデータ放送は、NHK以外の民放でも活用でき、かつ当社のみならず全てのメーカーのテレビやセットトップボックスで受信できるように、標準規格をつくる必要がありました。

そのため、データ放送受信のソフトウェアを開発する大阪と、各社と一緒に標準化作業を進める東京を行ったり来たり、寝る時間もとれない生活が始まりました。

そして、その真っ只中で、私の仕事観が180°変わる「大きな出来事」が起こりました。

それは、当社のテレビの開発責任者だったIさんから、データ放送の標準化や開発を進める上での条件を示されたときのことです。



「こんな大きなソフトウェアをテレビに組み込むのは業界でも初めてのことだ。大規模ソフトには必ずバグが出る。その修正のために全国津々浦々のご家庭を回るわけにもいかない。そもそもおかけするご迷惑やご不便を考えると即座に改修できる仕組みが必要だ。必ず “放送波” でソフトをアップデートできるようにすること。



私は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。

ソフトウェアである以上、必ずバグが出る。そのたびに、お客様にご不便をおかけしてはならない。そのためには、お客様に「故障かな?」と感じさせることなく、自動的にアップデートがされなければならない。

まして、当時のテレビは、かろうじて通信回線の接続機能はあったものの、受信機のプログラムを伝送できる高速通信もなければ、どれだけのお客様に実際に回線に接続していただけるかもわからない状態です。

だからこそ、すべてのお客様に最新のソフトウェアをご利用いただくために、「デジタル放送」でソフトアップデートを実現せよ、と。そういう指示でした。

恥ずかしながら、研究所出身の私にはそこまでの考えはありませんでした。「実用化のための条件、普及のための条件、お客様にお選びいただいて、ご購入の後で気持ちよく使い続けていただくための条件 … 新しい技術を組み込んだ製品を世に出すときは、そこまで考えんとあかんのか…!」

製品をお使いいただくお客様にご不便をおかけしないよう、徹底的に配慮した製品開発。そのための技術開発と実装。それがあって、はじめて「普及」させることが許されるのだと。

「新技術の実装」をゴールにしていた私は、雷に打たれたような衝撃でした。

そして、データ放送同様、ソフトウェアアップデートについても、当社のみならず、すべての受信機メーカーが利用できるものでなくてはならず、NHKにお願いをしてこの部分についてもダウンロード方式の標準化と電波運用を推進していただきました。

この頃は昼夜問わず、規格化に、開発に、没頭していました。
データ放送の象徴のひとつともなる「dボタン」。これを実装した商品を出すことができたときの「やったでー!!」という大きな達成感は忘れられません。

* * *

そんな怒涛の開発を終えてからからしばらく経った2000年12月頃。

仕事の帰り道、「うちのテレビも発売されて店頭に並んでるはずやな」と秋葉原をうろうろしていると、家電量販店の店頭で、店員さんがお客様に発売されたばかりのBSデジタルテレビに実装された「dボタン」(デジタル放送)のデモをしているのを見かけました。

「ああ、ようやく、自分の仕事が、お客様の手元に届こうとしている…」、「これから数十年日本のお茶の間の中心になるデジタル放送の立ち上げの一翼を担うことができたのかもしれない」――。

しばらくの間、涙ぐみながらその場で立ちつくしたことを覚えています。


* * *

技術は、人々の生活を真に豊かにする可能性を持っています。

その可能性を現実のものにするためには、「技術開発のための技術開発」に陥らず、常に「人々や社会へのお役に立つために、最適な技術はなんなのか、それをどのように活用するべきか」という問いを忘れず、メーカーとしての使命を全うしていきたいと考えています。


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