病院の怪談 ②
「集中治療室に入った翌日、歩行訓練させられたの。腹腔鏡手術だから人は簡単に考えるでしょうけど、お腹に孔開けて内臓を引っ張り出すのよ」
「考えただけで怖いよね、自分は麻酔されていて分からないけど」
「体にはすごい負担がかかっているはずよ。それでもう歩かされるの?って思ったわ」
幸子は身を乗り出して、
「今はお産の後もすぐ歩かされて三日ぐらいで退院させられるのよ」
「リハビリ士さんに手伝ってもらっても体にいっぱい管付けてるから、ほんと、歩きにくい。でも、頑張って歩いたよ~]
「早く退院したいからがんばるよね、わかる、その気持ち」
百合子は水を一口、続ける。
「集中治療室って部屋のドアがないのね。外から丸見え。誰でも入れる。入ろうと思ったら」
「だから携帯も腕時計も財布もすべて没収されるのね」
「丸裸状態よ。怖かった~時間が分からない世界がこんなに怖いとは知らなかった。で、ね」
「部屋を取り囲んだ楕円形の通路を歩いてゆくと」
百合子は声をひそめる。幸子が両手を胸の前でぶらぶらゆすって、
「人が管つけられて寝ている姿が全部見える、幽霊みたいに」
「テレビドラマで見る集中治療室と違うのよね。ドラマでは大勢の看護師さんや医師が患者の周りに立って見守っていて、なんか大きい器械が点滅しているけれど」
「現実は寝てる患者の姿以外、ほとんど見えなかったよね」
「あとちょっとで一周ってときに、リハビリ士さんが、もうすぐ部屋ですよ。頑張りましたね、と言った。そしたら」
話しながら百合子は自分の腰に手を当てた。
「誰かが私の腰に抱きついたの」
「リハビリ士さんの手じゃない?」
「違う。小さな子供だった。誰?って聞いたらその手は消えた。そのあとは覚えていないの。私、歩行器の中で気を失ったみたい」
「まだ貧血状態だもんね。あの廊下、半周してもきついよ」
百合子はうなずき、コーヒーをスプーンでかき混ぜた。昨日のことのようにあの小さな手の感触を思い出す。
「しばらくして目を開けると二人の男性が私をのぞきこんで、名前を言ってください。ここがどこかわかりますか?って。私がちゃんと応えたら二人は少し笑ったわ」
店内の照明が少し暗くなった。
百合子は薄暗い天井を見上げた。
「後で思ったわ。あの子はどこからか来て、これ以上歩いちゃダメって私を止めたんだと」
幸子は辺りを見回し、
「タクシーの運転手さんに聞いたけど……あの病院で……5年ぐらい前、妊娠したまま死んだ患者さんがいたんだって」
「ほんとう……?」
「医療ミスだったって」
「なんでタクシーの運転手さんがそんなこと知ってるの?」
「運転手さんって、病院で起こったこと何でも知ってるよ……」
と幸子は掠れた声で続けた。
「お腹に入ったまま死んだ子は……小さな蜂とか蝶々に生まれ変わるけれど、どうしても生まれ変われない魂があるんだって」
「その子はどうなるの?」
「見ることのなかった母親を捜しているんだって。成長した姿を母親に見せたくて。運転手さんがそう言ってた」
「一般病棟に移って最初の夜、部屋の外で、キャッキャッって笑う声がするの。腕時計を見たら3時半 」
「真夜中じゃないの……」
「女の人の声が、静かにね。皆寝てるから、って。それから、廊下を掃除するみたいな音と楽しそうなささやき声が聞えたの。パートでお掃除している人が子どもを預ける所がなくて連れて来たのかなって思った……」
「真夜中に掃除はしないよ」
「あのころコロナで病院を掃除する人もいなかったから、やっと見つけたパートさんに真夜中に来てもらったんじゃない?」
急に広い店内が暗くなり、天井に星座が現われた。客たちは小さな歓声をあげ天井を見上げる。
「喫茶店のプラネタリウム、ロマンチックね」
幸子が百合子の手を握ってささやく。
百合子は天井の星を見ながら思った。
母親のお腹のなかで死んだあの子は5年経ってようやく母親の魂に会えたのだ。母親も病院の掃除をしながら我が子の魂を捜していたのだ……。
途中で、あの子、間違って私にしがみついたのかも。
続く