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最後の授業

 これは北アルプスの麓に広がる安曇平という地のある町でおこった出来事です。すでにみなさんはその町の名前を知っていますね。あれだけ騒がれた事件ですから。その町の人々にはとてもつらいことですから、その町の名をA町としておくことにします。その町の名をつけた中学校もまたやはりA中学校としておきますが、この中学校は信州教育と尊敬をこめてよばれる数々の実践活動を生みだしていった古い輝かしい歴史をもった学校でした。この中学校に通う瀧沢隆君という中学生が、自宅の納屋で首を吊って自殺するという痛ましい事牛がおこったのでしたね。
 残念なことに、まるで流行のように、子供たちがあちこちで自殺しています。子供たちの自殺があまりにも頻繁に起こるので、いまでは新聞記事にもなりません。しかしこの隆君の自殺事件はちがっていました。連日にわたって新聞もテレビも週刊誌も、なにかヒステリ一をおこしたと思われるばかりの騒ぎ方でした。どうしてこんな騒動に発展していったかといいますと、その事件を取材するためにつめかけた地元記者たちが、その学校の校長先生を取り囲んで、
「隆君は遺書を残していますが、この遺書を先生はどう思われますか?」
 とたずねたのです。その学校の校長先生は篠田政雄といいましたが、そのとき篠田校長はなにか吐き捨てるように、
「こんな貧しい遺書で死ぬなんてあわれです」
 と言ったのです。驚いた記者たちは、
「貧しいですか?」
「貧しくて幼稚な遺書です」
「幼稚なんですか?」
「これが幼椎でなくてなんなのでしょうか。こんな幼稚な遺書で死んでいく子供はあわれにつきます」
 校長先生はさらに取材を続けようとつめよる記者たちをかきわけて、逃げ込むように校門に消えていったのですが、そのときその一部始終をテレビ局のクルーが音声とともに録画していたのです。その映像とその会話が、各テレビ局に配信され、日本中にそのシーンが、それはもう繰り返し放映されていったのでした。
 翌日の新聞も一斉にこの事を報じました。社会面を二面もつぶし、さらに社説までにとりあげて、校長先生の言動をはげしく非難するのでした。凄まじいのはテレビでした。昼のワイドショーで、夕刻のニュースショーで、さらには深夜のニュース番組で、いずれもトップニュースとしてこの事件を報じるのでした。
 いったいこの事件をマスコミはどのように報じていったのでしょうか。そのあたりをある日の昼のワイドショーを子細に再現してみましょう。いかに日本中がすさまじい騒動の嵐につつまれたかがわかろうというものです。
まずその画面に重々しい悲しみの音楽がながれて、隆君の遺書が写し出されます。その遺書を声優が悲しみをこめて読んでいきます。

「お父さん、お母さん、由香、それとぼくの大好きなおじいちゃんおばあちゃん。ぼくが死ぬことをゆるしてください。ぼくはもう生きていくことはできなくなりました。もうつかれました。とても生きていく力はありません。HYSFNにもうぼくはつきあえません。ぼくはもう二度ほど死ぬ目にあっています。二年のときは日本海で死ねといわれたし、またこのあいだの台風のあと犀川横断のときも死にそこないました。だんだんバツゲームもひどくなって、今度はT先生の部屋をおそうなんてぼくにはできません。ぼくはHYSFNたちにつきあうのはもうつかれました。いままで五十万円たまっています。いつかぜったいに返そうと思っていましたが、返せなくなってごめんなさい。お父さんとお母さんにはいろいろと感謝しています。由香はぼくのぶんまでお父さんとお母さんを大事にして下さい。おじいちゃん、おばあちゃん、いつまでも元気でいてください。ぼくはみんなが大好きでした。ぼくが死ぬことをどうかどうかゆるしてください」

 日本中を悲しませたその遺書の全文が読まれると、画面は中学校の校門の前に立つレポ一タ一を写し出します。そのレポーターは、演技なのでしょうが、なにか悲しみと怒りをないまじえたような表情をつくって報告をはじめます。
「この中学はA町の中心にそびえ立っています。ご覧のようにいかにも古い歴史と伝統を感じさせる学校です。隆君が在席していた三年二組の教室は、校舎の二階、ちょうどあのあたりにありますが、その教室には隆君の遺書の中にでてくるHYSFNという少年たちの机もあるはずです。隆君は十月二十日の深夜に遺書をかき、そして翌日自宅の納屋で首を吊って自殺したのですが、いったいなにが隆君をそのように追いつめていったのか。いまでは隆君の書き残した遺書でしか心のうちを推測できないのですが、しかしこの遺書には私たちに伝えたいメッセージといったものがたくさん書き残されているのです。そしてこのメッセージに書かれたものをたどっていくとき、隆君がどんないじめにあい、どんなふうに追いつめられていったかがわかるはずなのです。いま私たち取材班はこの隆君の死にいたる道をたどっていくことします。
 なんでもこの遺書に書かれているHYSFNという子供たちは、先生たちにいわせるとごく普通の生徒たちだといいますが、しかしクラスの子供たちからみると、先生たちもちょっと手がだせないような不良グループだったようです。隆君もまたそのグループの一人だったようですが、しかし実状は、無理矢理そのグループに引き込まれた隆君は、何度もそのグループから抜け出そうとしたけど、そのたびに激しい暴力にあって抜け出せなかったということが真相だったようです。隆君の遺書がなによりもそのことを痛切に叫んでいます。この悲しみの遺書を、貧しくて幼椎だといった篠田校長、そしてこんなに追いつめられていたのに、少しも察知できなかった脳天気な教師たち。こういう悲劇を生み出していく日本の学校の実態にせまっていきたいと思います」

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 篠田校長にたいする取材はすさまじいばかりでした。学校はもちろん自宅まで大勢のマスコミの取材者たちが、二十四時間張り込んでその姿を捕らえようとするのでした。
 隆君の葬儀が三日後に行われましたが、そのときも大変な騒動でした。篠田校長が車から降りてくると、何十人もの取材者がどっと襲いかかるように校長先生を取り囲み、マイクをつきたて、それぞれが質問をぶつけるのでした。なにかそれは獲物に襲いかかるハイエナといった光景でした。ようやくその取材者たちの群れから抜け出して祭場に入っていくと、一斉に険しい視線が校長先生に向けられるのでした。
 校長先生が焼香する番がきました。そのとき親族のなかから突然猛々しい声が飛んでくるのです。隆君の叔父さんでした。
「お前なんか、焼香する資格なんてない!」
 そして激昂したその叔父さんは、校長先生のところに飛んできて、校長先生の胸倉をぐいとつかむと、
「お前なんか帰れ、ここにくる資格はない!」
 この興奮した叔父さんを、隆君のお父さんやお母さんが、必死におしとどめて席に引き戻しました。
 校長先生は焼香台の前に立つと、隆君の遺影を見つめました。美しい笑顔です。少年の輝きがこぼれるばかりの笑顔です。校長先生は両手をあわせて、ずいぶん長く黙祷していました。そして焼香をおえると、遺族の列にむかって頭をさげ、退場しようと歩み出したとき、今度は隆君のお母さんが立ち上がって校長先生を呼びとめ、校長先生の前につつと歩みよるとこういいました。
「校長先生。先生はいま隆にどんな言葉をかけて下さったのですか」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「まさか、幼椎な貧しい遺書を書いて死んで、あわれだとおっしゃったのではありませんね」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「隆は校長先生をとても尊敬していました。校長先生はちょっとちがう、校長先生はちょっとすごいって。なにがちがうのか、なにがすごいのかわからないいい方ですが、でも隆にとってそのいい方は、最高のことを表現するいい方だったのです。隆はそんなにも校長先生を尊敬していたのです。その尊敬していた校長先生に、貧しい幼稚な遺書を書いたものだ、あわれな死に方をしたものだといわれて、どんなに悲しい思いをしているでしょうか。若くして無念のなかで死ぬと、その魂はいつまでも成仏できずあたりをさまよっていると聞きます。隆の魂はいまこのあたりにいるのです。隆の魂はまだ生きています。立派な遺書だった、美しい遺書だったなんていってもらうつもりありません。でもあの子はあの子なりに力いっぱい書いたのです。ですから校長先生、力いっぱい書いた遺書なんだね、力いっぱい生きたんだねって、隆の前でいって下さいませんか」
 しかし校長先生はただ軽くお母さんの前に頭をたれると立ち去りました。この様子を固唾をのんで見守っていた参列者から、この非情な校長先生に怒りの声が投げつけられました。
「学校が子供を殺したんだ!」
 さらにはこんな怒号も飛びました。
「お前たちは殺人者なんだ!」
 そして参列者の怒りが頂点に達したかのように、参列者の一人が折り畳みの椅子を校長先生に向かって投げつけるのでした。
 そのシーンを沢山のテレビ局のカメラが、さまざまな角度から一部始終とらえていました。そしてまた一斉にそのシーンがありとあらゆるチャンネルで流されるのでした。篠田校長にたいする非難はすさまじいばかりでした。なにか日本列島が一大ヒステリーをおこしたかのような騒動になりました。マスコミの攻撃は教育委員会や文部科学省に校長を処分せよと迫り、さらにはこの事件はいじめによる殺人事件だから、警察はただちに捜査を開始せよという論調になっていくのでした。

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一冊の本が世界を変革することがある。小さな出版革命はやがて草の生命力で大地に広がっていく。

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誰でも本が作れる。誰でも本が発行できる。誰でも出版社が作れる。この小さな革命を生起させんとする「草の葉ライブラリー」は、「CAMPFIRE」に7月23日から9月7日までの46日間、高尾五郎作「ゲルニカの旗 南の海の島」をクラウドファンディングします。「CAMPFIRE」に掲載された私たちのサイトを訪れて下さい。
ウオーデンは間もなく「note」から立ち去ります。 新しい地平を開かんと苦闘するウオーデンの最後の戦いに力を貸して下さい。

高尾五郎著 ゲルニカの旗 南の海の島

あい7

四編の中編小説が、A4版360ページに編まれています。一冊一冊が手作りです。生命の木立となって、時代とともに成長していく本です。カラーの挿絵が六点挿入されていて、一冊一冊が工芸品のように造本されていきます。「草の葉ライブラリー」が読書社会に投じる革命の本です。たった一冊の本が世界を変革していきます。

目次
ゲルニカの旗
最後の授業
吉崎美里と絶交する手紙
南の海の島
        
「ゲルニカの旗」(二五〇枚)、「最後の授業」(一一〇枚)「吉崎美里と絶交する手紙」(六五枚)、「南の海の島」(二六〇枚)の中編小説で編まれている。日本の歌が聞こえる。さまざまな賛歌が聞こえる。

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