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連載小説・海のなか

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とある夏の日、少女は海の底にて美しい少年と出会う。愛と執着の境目を描く群像劇。
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小説・海のなか(12)

小説・海のなか(12)

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目を細めて黒く染まった海を見つめていると、夜風が渡る気配がした。夜があたしを呼んでいる。水平線の向こうでは、夕日の名残が溶けて無くなろうとしていた。夜と昼のあわい。空は夜にもなりきれず星を煌めかせたまま一方は白み、また一方は濃く陰りはじめる。この時間帯が一番好きだ。名付けることのできないこの瞬間が。宵闇の空に鱗雲が白く浮き上がり、何か怪物の群のように見えた。
 『今がいちばんコワイ時間』

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小説・海のなか(7)

小説・海のなか(7)

第4章 ダイアローグ

「それにしても、随分とありふれた娘を選んだものだ」
 妖艶な女は興醒めたようにぽつりとこぼした。低く澄んだ声が虚空に広がっていった。私は女の横顔に目をやりつつその美しさにぞっとした。秀でた額が滑らかな曲線を描いている。そうしてそこから続く鼻梁から顎にかけてのラインには無駄なく削ぎ落とされた鋭利な美が宿っていた。黒くうねりのある長い髪が額縁のように憂いのある表情を彩り、見るも

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小説・海のなか(6)

小説・海のなか(6)

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 駅前の寂れた商店街をまっすぐに抜け、小さなトンネルを潜ると坂の上に市立図書館が現れる。濃い樹木の緑に石壁の白が夏の光に照らされて映えている。坂の下から図書館を見上げるのが好きだった。ふとした瞬間にずっと見つめてしまう。特別美しいわけでもないのに。この白く鈍い輝きをいつまでも焼き付けていたいと思う。坂の多いこの町の中でも一際高い場所に建てられたこの建物は遠くからでもよく見えた。いつも意識の

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海のなか(5)

海のなか(5)

前話はこちら。





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 閑散とした駅を後にして、気がつくとわたしは歩き出していた。その感覚は自ら歩いているというより、誰かに導かれて、という感じだった。考えなくても勝手に身体が動いていく。未知の感覚に全神経が集中していた。心地よさがいつのまにか胸を満たしている。こんなふうにつれてきてもらったことがある気がする。誰かに手を引かれて、ずっと昔に。
 不思議な声は海に近づくにつれ

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海のなか(4)

海のなか(4)

第三章   盲目的な幸せ
 いつもそうであるように、台風はあっという間に通り過ぎて、週末は雲ひとつない真っ青な晴れ模様となった。目の眩むような空の青さを見続けていると、何か途方もなく大きな怪物の口を前に立ち尽くしているような気分にさせられる。きっとわたしには大きすぎるのだろう。
 不意に、ため息が出た。せめて雨ならばよかったのに。そうすれば嵐のあの日感じた快感をもう一度味わうことができたかもしれな

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海のなか(3)

海のなか(3)

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陵からメールがあったのは、新学期が始まって数日が経った日の夜だった。それは陵からの初めてのメールだった。海に行く前に陵とはメールアドレスを交換していたけれど、メールのやりとり自体はしたことが無かった。短いメールだった。
「愛花へ。久しぶり。夕凪、昨日退院して明日から学校来るらしいです。一応知らせといた方がいいかと思って。昨日退院前に会いにいってみたけど元気そうだったよ」
「夕凪」という名前

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海のなか(2)

海のなか(2)

第二章 嵐の日には

わたしが浜辺で発見されたその日から予報外れに天気が崩れ、退院し学校に行く頃には嵐が街を襲った。陸に帰ってきてからずっと、とめどない雨音がBGMのように耳元で囁いている。
雨は好きだった。雨は満たしてくれる。何も考えず、ただ雨を感じることだけにすべての感覚を使う。よく雨が降っている日には、窓を開けたままにして外を眺めていた。その方が雨のすべてを受け取ることができるから

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小説・海のなか(1)

小説・海のなか(1)

第零話 プロローグ

あれからもう随分と永いあいだここにいるような気がしている。
いまが一体いつなのか、もうわからない。
それほど時間が経ったのだ。あの時から。すべてを曖昧にさせるほどの永い、永い時が。
わからないことだらけだ。
私は誰なのか。
私の名前はなにか。
私を知っている人はいるのか。
そして、私は生きているのか。
ここに来る前に私は多くのものを失ったように思う。失ったものについて考え

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