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海のなか(4)

第三章   盲目的な幸せ
 いつもそうであるように、台風はあっという間に通り過ぎて、週末は雲ひとつない真っ青な晴れ模様となった。目の眩むような空の青さを見続けていると、何か途方もなく大きな怪物の口を前に立ち尽くしているような気分にさせられる。きっとわたしには大きすぎるのだろう。
 不意に、ため息が出た。せめて雨ならばよかったのに。そうすれば嵐のあの日感じた快感をもう一度味わうことができたかもしれない。あの日の昂りを忘れられない。嵐は去ってしまった。もう、力を借りることはできない。
 でも、過去に遡っていくうちにこれでいいと思い始めていた。初めて青にあった日ーーーあの日もこんな天気だった。あの日と何もかも同じの方が青に会える気がした。
 寂れた電車の中には溺れたあの日と同じように暖かな陽光が降り注いでいる。安穏とした気怠い雰囲気が車内に満ちて、考える力を失わせるようだ。あの日と何も違わない。ただわたしのそばに誰もいないだけ。
 一人きりでいるとやけに扇風機の音が大きく聞こえた。一人なんて慣れっこのはずなのに。わたしは誰といてもどこにいてもひとりだ。今までも、これからも。
「…青」
 陸に戻ってから幾度となく口にした名前がまたこぼれ落ちてゆく。その呟きは誰に掬い上げられることもなく、電車の軋みの中に消えていった。陸でのわたしの言葉はこんなにも小さい。誰一人、わたしを見るものなどいない。
 早く空白を埋めたい。青に会いさえすれば何かが変わる気がした。海が、青が、わたしを呼ぶから。わたしを心から必要とする人など、きっと陸にはいない。
 正直、本当に青に会うことを自分が求めているのかどうかわからなかった。もしかしたらわたしは快感と充足をもう一度味わいたいだけなのかもしれない。それだけあの数瞬は完璧に満たされていた。あれさえあれば何もいらないと思うほど。嵐の去った後にはただ果てしない飢えだけが残されている。もうどうしようもなかった。わたし一人では。
 不意に視界が黒く染まる。電車は短いトンネルに入ったらしい。もうすぐ目的地に着くはずだ。窓ガラスには鏡のようにくっきりとわたしの顔が写り込んでいた。なぜかその顔にわたしはいつのまにか青を重ねて見ている。あの美しい人とわたしなど似ても似つかないはずなのに。でも、それで十分だった。ほんの少しでも彼を身近に感じることができるなら。そっと額を窓に押し当てて呟く。
「青…」
(はやくきて)
突然聞こえた声にわたしは目を見開いた。窓ガラスの中の「わたし」の口が滑らかに動く。自分の口を手で押さえたけれど、その手はなぜか窓に映らない。これは、わたしではない。
(はやくきて、夕凪)
「青…!」
 驚きのあまり叫んで立ち上がると、同時にトンネルが途切れた。目の前が突然色彩を取り戻した。眩しくて顔をしかめていると、間延びしたアナウンスが聞こえる。海についたのだ。電車の止まる衝撃でたたらを踏み、とっさにポールに縋り付いた。
はあっとひとつ熱い息を吐き出した。何をしたわけでもないのに、息が苦しい。心臓の鼓動が痛いほど内側から突き上げてくる。そう。まるで嵐の日のようだ。他の乗客たちは怪訝な顔でこちらを見上げていた。不審に思われたのだろう。羞恥に顔が熱くなっていくのを感じる。
 正気に戻ったわたしは転がり出るように電車から降りた。降りたった瞬間、潮の香りが全身を包む。身体中が目覚め、欲しているものがここにあるとはっきりわかった。
 耳の奥ではまだ誰かがわたしを呼び続けていた。その響きは確かに、あの日ホームで聞いたあの美しい声と同じだった。電車が過ぎ去った向こう側には海が見えていた。美しい青がわたしを呼んでいる。わたしは誘いにあわせて、また何度も呼び続けた名前を口にした。
***

海のなか(5)へつづく。

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