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小説・海のなか(12)

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目を細めて黒く染まった海を見つめていると、夜風が渡る気配がした。夜があたしを呼んでいる。水平線の向こうでは、夕日の名残が溶けて無くなろうとしていた。夜と昼のあわい。空は夜にもなりきれず星を煌めかせたまま一方は白み、また一方は濃く陰りはじめる。この時間帯が一番好きだ。名付けることのできないこの瞬間が。宵闇の空に鱗雲が白く浮き上がり、何か怪物の群のように見えた。
 『今がいちばんコワイ時間』
ここでなら、あたしはあたしのままでいられる。純粋に、あたしのままで。
 夜の闇を溶かしたような液体が目の前に満ちて、手招くように揺れていた。陽の光はもうここには届かない。揺蕩う波に合わせてあたしの心もザラつく。危ういことをしている。そうわかっていながら、やめられない。夜はあたしの時間だ。夜の中でしかあたしは呼吸できない。
 この時間は何にも替え難かった。皆はこんなあたしがいるなんて、思いもしないだろう。あたしがあたしを覗く時、それは暗い底のない穴に見つめ返されるのと似ていた。誰かがこんな自分を受け入れてくれるなんて。そんなこと望めないくらいには、あたしは醜い。袋小路にいるのだ。死ぬまで逃れられない、行き止まりに。
 すぐそばに停泊している船がコゴン、と音を立てた時、一馬の声が降ってきた。
 「ほら、これでよかったんだろ?」
 振り向くと、カップに入ったアイスクリームが差し出される。「マキノ」のたまごアイスはあたしの昔からの好物だ。一口含むと、優しい甘さが舌の上に広がっていく。甘すぎないこの味が好きだった。一馬が無造作に左隣に腰掛けた。横に視線を向けると、海面の上をぶらぶらと揺れる大きな足が目に入る。恐らくまた背が伸びたのだろう。出会った頃は、小柄な体に不釣り合いな大きな足が目についた。けれど、中学3年くらいからだろうか。みるみる体格が足に見合うように変化し始めた。まるで別の生き物のように。あたしを置き去りにするように。あたしの目はシャツの袖から剥き出しになった筋肉質な腕の線を辿っている。なんとなく悔しい。だから、誤魔化すように言った。
 「ありがと。やっぱりおいしい」
 「それ、ほんと好きだよなぁ」
 半ば独り言のように一馬が返した。この低い声にも未だに慣れない自分がいる。
 「ちょっと久しぶりだよな」
 「え?」
 「こうやってあうの、だよ。つーか、俺ここに来んのも久しぶりだわ」
 「ああ…」
 あたしは毎日ここを訪れて海を眺めている。それをなぜか一馬には言えない気がした。
 一馬とは高校から学校が分かれた関係で前ほど会えなくなった。だから、時折こうやって会っている。誘うのはいつもあたしから。会う場所はこの船着場。もう一年以上にもなる。
 なぜだろう、無性にこの繋がりを握りしめていたいと、思ってしまう。そして、思うたびあたしは何かに負けているような気になる。
 「つーか、またそれ食べてんの。いい加減胸焼けしてくるわ」
 なんとなく居心地の悪い方へ話が向かっている気がして、あたしはそう言った。一馬の左手には特大のパンが一つつかまれていた。見れば見るほど意味不明に甘さを重ね掛けしている代物だった。ホイップクリームとバナナが挟まれたコッペパンの上にナッツとキャラメルソースと苺ジャムとチョコスプレーがこれでもかとトッピングされている。確か中学の頃もどこで探してきたのかというようなトンデモパンを毎日買い食いしていた。奴は甘党の偏食しかも大食らい。好きだと思ったものは嫌いになるまで食べ続ける癖があった。
 大きな口がパンの端をかじり取る。ホイップクリームがその口につくのも厭わずガツガツと喰っていく。見る見るうちに半分ほどになったそれを片手で弄びつつ、口の中にあるものを一気に飲み込むと一馬が言った。
 「るせーな、食い物くらい俺の好きにさせろ。甘いもん食ってねーとやってらんねーよ。どうせすぐ腹減るし」
 「みてるこっちがしんどいわ。てか、そもそも美味しいの?想像するだけで地獄みたいなんだけど」
 「はあ?旨くなきゃこんなに食ってるわけねーだろ」
そう言って大口を開ける一馬に
「待った!それ一口でいこうとしてんでしょ。汚い。やめて」
 というあたしの声も虚しく、ブラックホールさながらパンは一馬の口へと飲み込まれていった。全く、信じられない。
 「…ほんと、相変わらず味覚が残念っていうか。ゲデモノ喰いだよね」
 「ほっとけ」
 「そんなに甘いものが好きなら砂糖でもかじってればいいのに」
  「おいおい。おまえ切れ味増してねーか。そんなんじゃすぐ化けの皮はがれんぞ。どうせ高校じゃ猫被ってんだろ?」
  「ははっ。べつに猫なんかかぶってないし。あれもあれであたしの素だよ」
  「嘘つく気があるんならもうちょいマシな嘘つけ。みえすいてんだよ。隠す気もないんだろーが」
   「ふん…わかったようなこと言わないでよね」
 こいつのこういうところが嫌いだ。昔から。一馬とは中学からの付き合いだ。一年の頃、同じクラスだったことがきっかけでなんだかんだ今まで続いている。いや。本当は引き止めているのかもしれない。あたしと別れたあの時、本当は離れようとしていたのかもしれないのだから。一馬とは中学2年のころ一年間付き合っていたことがある。とは言っても友達の時とほとんど関係は変わらなかったけれど。せいぜい手を繋いだりした程度。遊びがデートという名前に変わっただけ。キスすらしなかった。
 だからいまだにわからない。なぜ一馬がなにもしなかったのか。何度かそういう空気になった記憶はある。けれどそのたび一馬はそんなものなかったかのように振る舞った。
 すっかり忘れていたはずなのに幾重にも重ねられた薄い包が剥がれて中身が露わになっていくようだ。
 あたしが友達に戻ろうと言った時、一馬はこう言った。
 「そろそろだろうと思ってた」
そう言ってあっさり別れてしまった。文句一つ言わず。理由すら問わず。そのいつにもまして無表情な何でもわかっているみたいな面が気に食わなくて仕方がなかった。あたしにだって、他にも付き合った男子くらいいたけれど、その誰よりも後腐れなく嫌にあっさりとしていた。どうして今まで忘れていられたのかわからないくらいだ。
 そもそも始まりからして曖昧だった。中学一年の終わりくらいから一馬とあたしがつきあっているという噂が立って、それをきっかけになし崩し的に彼氏彼女になったような。おぼろげながらそんな記憶がある。終わりはあれほど鮮明に覚えているのに。
 「おい、どうしたんだよぼぉっとして」
 視線を上げると思ったよりも近くに一馬の顔がある。あたしはとっさに一馬の頬を思い切り押さえつけて向こうへ押しやった。さっきまでの思考を全て読まれてしまいそうな気がして。
 「近い!」
 わざと怒鳴りつけるように言ってから、一つ息をつく。こんなあからさまな誤魔化しなんて、こいつにはきっと意味がない。けれどそうせずにはいられないのだった。
 「……ちょっと昔のことを思い出してた。昔の一馬は可愛かったのに今はゴツくなったなぁって」
 嘘ではなかった。あたしはいまだにまだ背の低かった頃の一馬の姿をなぜかしっかりと記憶していた。あたしと付き合っていた頃の少年を。

(海のなか13  へとつづく。)


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