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海のなか(5)

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***


 閑散とした駅を後にして、気がつくとわたしは歩き出していた。その感覚は自ら歩いているというより、誰かに導かれて、という感じだった。考えなくても勝手に身体が動いていく。未知の感覚に全神経が集中していた。心地よさがいつのまにか胸を満たしている。こんなふうにつれてきてもらったことがある気がする。誰かに手を引かれて、ずっと昔に。
 不思議な声は海に近づくにつれ、大きくなっていった。繰り返し聞けば聞くほど奇妙な響きだった。無性の響き、とでも言えばいいのだろうか。何度聞いても、男のようにも女のようにも聞こえる。無性のイメージは青とつながっているようにも思えた。揺らめく水面のようにその印象は絶えず変わり続け、捕らえがたい。記憶の中にある青の声と繰り返す響きとが混ざり合って境界が曖昧になってゆくようだ。その様を味わう心地は、恐ろしいような、ふさわしいような言いようもないものだった。
 海沿いにしばらく歩いていくと、船着場にたどり着いた。穏やかな海面の揺れが、船をコンクリに鈍く打ちつけているのが聞こえた。船着場の向こうの海は胸が切なくなるほど美しく煌めいている。向こう側には島も見えた。向島だ。
 船着場の一部は海の方へと長方形に迫り出していた。白い足場と深い海の色のコントラストが目に染みる。
横に二つ並べられた古い木製ベンチには見覚えがある。所々かけてはいるけれど、「手作りアイスクリーム まきの」と読むことができる。
ーーーきっとわたしはここにきたことがある。
 そう思った瞬間、何かが蘇った。
暖かな手の感触、わたしより高い背丈、縮れた白い髪、暖かな声。
「手を離しません」と唱える幼い声。
 何かを忘れているのだ。大切だったはずだ。何にも替えがたいほどに。ーーーそれなのに。嫌だ、思い出したくない。
 周囲の光景が歪んで見える。天地が揺らぎ、耐えがたいほどの耳鳴りに襲われた。
まるであの時のようだ。青とあったあの日、気を失う寸前。
 「あおっ」
 無意識のうちに、わたしは彼の名前を呼んでいる。息ができない。ここに水はないはずなのに。過呼吸の時のように、喉からは嫌な息切れの音がしている。胸が詰まって涙がこぼれた。
赤い。いつのまにか、膝小僧からは血が流れている。どうやらわたしは立っていることを放棄したらしい。
 太陽に焼かれた地面は熱いはずなのに、身体は震えるほど寒かった。寒くてたまらないのに汗が止まらない。
「あおっ!あお!」
 もう、声が出ているのかすら怪しい自分の叫びが他人の声のように聞こえた。視界はどんどんあやふやになっていく。その間にも不安は潮のように容赦なく足元に満ちてわたしを沈め、溺れさせてゆく。
「青…たすけて!」
 すると突然、波が眼前に立ち上がった。視界がまた海に染まっていく。今ならわかる。恐ろしいほどわたしはこの瞬間を待ちわびていた。耳元で激しい水音がする。波に喰われてゆくその最中、胸が震えるような懐かしい感触を覚えていた。
ーーーわたしはこの息苦しさをずっと昔から知っている。
 海に覆われた景色はあの時と同じ色をしている。もう、自分が泣いていることさえわからない。わたしの瞳を濡らすものはもう何もない。
 ああ。わたしは一体いつから溺れているのだろう。
(ツカマエタ)
愛しいはずのその声は、忍び寄るような響きでわたしをいつのまにか支配していた。


***


 痛みを感じた。
 じわじわと蝕むような痛みだ。
 それは拍動に合わせてだんだん強くなってゆくようだった。ーーーそうだ、あの痣。青い痣が痛む。そういえば今日は一度も確認していない。あれだけ毎日眺めていたというのに。大切なものをないがしろにしてしまったような後ろめたさを感じながらも、わたしは足元を見ることができなかった。なぜだろう。見てはいけない気がした。見てはならないものがそこにはあるような。
 迷っているうちにどんどん痛みは激しくなっていく。まるでわたしを責め立てるように。骨が生きたまま朽ちていくような痛みだった。
みろ。
みろ。みろ。
みろ。みろ。みろ。
見ろ。
「…っ!」
 わたしは思わず恐怖と痛みに悲鳴をあげそうになるが、開いた口からは声が出てこない。次第に見ることを強いる力は強くなって、見ないわけにはいかなくなる。
 もう、見えてしまう。見てはいけないのに。
 ーーー誰かが呼んでいる。
 「…なぎ」
 「夕凪」
 「夕凪!」
 いつのまにか閉じていた目を開けると、そこは海のなかだった。目覚めると同時に口から大きなあぶくがひとつのぼっていく。身体が熱を帯びていた。息が荒い。感覚を取り戻すにつれ、全てが夢だったとようやく気がついた。まだ混乱したままの頭で起き上がり、そっと足を見る。正確にはそのくるぶしを。
 夢だと分かっていてもまだ怖い。足に被ったスカートを少しずつずらすと痣が露わになった。やはり手の形に似ている。少し色が濃くなったような気がした。暗い海の中で肌の白さが際立つせいだろうか。知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出していると、すぐ近くで声がした。
「夕凪」
 顔を上げると、すぐ目の前に何度も思い出したはずの微笑があった。
「青…っ」
たくさん言いたいことがあったはずなのに、次の言葉をつげない。ここが地上だったなら、わたしは涙を浮かべているのだろう。
「随分とうなされていたみたいだけれど、大丈夫?」
まだ声の出ないわたしは何度もうなずくしかなかった。こんなことは初めてだ。泣きたくなって喉が詰まるなんて。
 正面から彼の視線を受け止めると、それだけで幸せだった。彼の慈しむような微笑みはわたしの想像を遥かに超えて美しい。青の美しさは一流の彫り師が仕上げた美術品の美しさだ。けれど、彼が微笑むたびにその完璧さがわずかに緩み、生き生きとした気配が隙間からこぼれおちていくように見えた。
「きっと来てくれるって信じてたよ、夕凪」
まだ信じられない。想像に溺れて現実と夢の境目がわからなくなっているだけなのでは。本当はわたしは一人きりで…。
 「触るといい。僕はここにいるから」
 青はわたしの手をとると、自分の頬にそえた。ひんやりとしている。その冷たさに安らぎを感じながらも、どこかでは不安だった。ひんやりとした感触はわたしと青が違うものだと思い知らせるようだったから。わたしは青からいつまでも手を離すことが出来なかった。彼に触れている間だけは一人ではなかった。この時が永遠に続くなら、初めて心から幸せを感じることができるのかもしれなかった。けれど、今が満たされれば満たされるほど、喪失の予感は強くなっていく一方だった。
 あたたかさはだんだんと青に吸い取られてゆく。お互いの体温が馴染んで一つになっていく。混じり合ったぬるい温度はどこか懐かしい気配がした。
 冷たさに酔いながら、ただ彼の澄んだ瞳を見つめていた。瞳は漆黒に一雫鮮やかな青を垂らしたような不思議な色をしていた。いつまでも見つめてしまうような奥深い色。青は頬に当てたわたしの手にずっと自分の手を重ねていた。
 「会えてよかった。本当に。神は僕の願いを聞き届けたようだ」
「神様がいるの?」
「ああ。いるよ。……僕は会ったことがある」
 彼の瞳は長い睫毛の下で静かに濁り、光を失っていた。微かな違和を覚えた。神について語る人がこんな目をするものだろうか。
「君なら神に何を祈る?」
 「わたし…?」
 その時、気がついた。今まで切実になにかをしたいと思ったことがなかったということに。わたしには望みがない。つよい欲望も、なにも。
 「わからない」
 気がつくとそう呟いていた。
 そうか。わたしは空っぽなのだ。
 そんな独り言のようなものが静かに胸の内に降りてきた。その時初めて、わたしという容れ物の中身を目の当たりにしたような思いがした。 
 「いつか、君も何かを欲する時がくる。その時が来たら、海神に祈るといい。あの方はきっと全てを叶えてくださるだろう」
 青はどこかを遠くを見つめているようだった。彼の魂はここではないどこかにある。それなのに青の声には一切の揺らぎがなかった。そう。まるでこの先になにが起こるのか全て見通しているかのように。
 「なぜわかるの?」
 「僕もかつて祈ったからさ。そしてその願いは叶えられた」
 言い終えると、青はまた真っ直ぐにわたしを見据えた。その瞳の深さに思わず息を呑んだ。危ういほどの美しさは魔を宿すようにも思える。あの深みに招かれ捕らえられるならば、きっとこの先何も望むことなどないだろうという気さえした。
 「君は必ず祈ることになる。何かを欲することなく人は生きることなどできない。だから、もう少しだけ。もう少しだけ考えてごらん」
いつか、わたしも望むのだろうか。この胸の内を臆することなく誰かに訴える日が来るのだろうか。
「ねえ。夕凪」
 「ずっと、会いたかったよ」
 青の声は柔らかく耳に馴染んでいく。わたしの望みはすでに叶えられているのかもしれない。此処で二人こうしていること。ただそれだけでいいのかもしれない。そんなことを考えながら、尾を引いて消えてゆく綺麗な声に耳を澄ましていた。
 「うん…」
 それでもやっぱり答えは出せない。まだ口にはできない。わたしは求めてしまうのが怖いのだ。わたしは何も持っていないから。
知らないうちに、青の頬から手が滑り落ちてゆく。あんなに離れ難く思っていたのに。ああ、冷たさが遠ざかる。
今のわたしにできるのは、あなたの名前を呼び続けることだけなのに。

***

海のなか(6)へつづく。

次話はこちら。

kuromimi.hatenablog.com

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