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おかしなことを書いたとは思っていない

先日投稿したnoteに、「批判」とまでは行かないけれど「意見のコメント」が来た。

内容としては、「諸悪の根源は”男”」という過激なフェミニスト(=ツイフェミ)の意見を鵜呑みにしてみて、「男が強く優しくなれば解決できるんじゃね?」という仮説を書いたものである。

まぁタイトルが「償う」という、あたかも「罪を犯した」と思わせるようなタイトルなのでピリつく人の気持ちもわかる。

だけど僕としては、ツイフェミに何を言っても変わることはないから、自分が変わる方向で動いてはどうかという提案をしたかった。

人を変えるより自分が変わる方が楽だから。

そして主導権を自分で持てれば、相手に何を言われても「僕の勝手でしょ」と言える。

そういう未来もあるよという、あくまで提案のnoteだった。


しかし意見コメントが来ましてね。

そしてその意見がどうも切り抜きなのだ。

例えば序盤に書いた「今の世界は”男”が作ったものであり、自分がこんなに不幸なのはすべて”男”のせい」という文言に対して、「主権者の半分が女性なのだから『男が作った』はおかしな結論だ」というコメントが来た。

確かにそうだ。

ここだけ切り抜けばそう読める。

だけどその後に「という文言を読んで、あなたは何を思うのだろうか。」と疑問提起している。

つまり最初の文章は、疑問を投げかけるためのプロローグのようなものである。

そこだけを切り抜いて「それはおかしい」と言われても、おかしいことを前提に書いているのだから仕方が無い。


なんて返してみるけど、僕の書き方とタイトルの釣り感が良くなかったと思っている。

どう書けば良かったかは、今でもよくわからない。

ただ僕の文章は「成長過程」でもあるので、投稿したからにはなるべく手を付けず、そのままを維持したい。

ので、「書き方ミスったな」と思いつつ、書き直すことはない。(あまりにおかしかったらさすがに直すけど)


「切り抜き」って手軽だよね

そりゃあ、元の文章を切り抜いて短くしているのだから、手軽に読むことができる。

僕だって岡田斗司夫さんの動画は切り抜きで見ることが多い。

長いライブ配信の中で、見たいものだけ抽出してくれる切り抜きは重宝するものである。

しかし、切り抜きの「手軽さ」は、理解の「深さ」とトレードオフの関係にある。


以前noteで、あいみょんさんの『風のささやき』という歌の歌詞を引用したことがある。

頑張れなんて言うなよクソが
死に物狂いで生きてんだ
そう簡単に言わないでおくれ

あいみょん『風のささやき』

ここだけ聴くと、「『頑張れ』という応援が煩わしい」とか「もうすでに頑張ってるのにこれ以上を求めるのか」という焦燥に駆られる感じを受け取れる。

だけどこの歌、最後の方になると「もう少しだけ頑張ってみるさ」と歌っている。

「頑張る」という感情は、誰かに何か言われることも無く内側から湧いてくるものだと、そう教えてくれてる気がする。


この歌、最初だけ聴いていると人の声が煩わしくて、うずくまっているような感じがする。

だけど最後まで聴けば、立ち止まることはあっても前に進もうとしている。

1曲は1曲で1曲なのである。


切り抜きは確かに気軽で、それ故に理解が早くなる。

しかし理解のハードルが低い分、得られるものも少なくなる。

一部ではなく全体を見て「何を言ってるのか」を探ること。

それが理解の深さをもたらし、知的豊かさをくれる。


とはいえ、興味の無いものを深く知ろうとは思わない。

おもしろいから、もっと知りたいと思うから全体を見るようになる。

一部だけ切り取って読まれるということは、全体への興味を持たせられていないということである。

ということはやはり、僕の文章力不足が今回の事を起こしたのだ。

「読者の理解力が無いからだ」と言うこともできるよ。

だけどそれをしたところで何になる?

既存の読者、新規の読者を失うだけじゃないか?

だったら自分の至らないところを認め、向上を意識した方が得である。


以上!くろだでした。

読んでくれてありがとうございました。

スキやコメント、フォローをよろしくお願いします。

ではまた👋


【あとがき】

通知開いてコメントが来てることを知った時は「久しぶりだな」と思ったし、コメントを読んだ時は「批判的なコメントじゃん」とガッツポーズをした。

おかしなことだけど、普通に嬉しかったな。

あとはやっぱりこういう話題は人の目を惹くんだね。

まぁ過激なので、そんなに関わりたくはないけれど、突っつきたくもなる話だよね。


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