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ウチとソト

家の中に入れば、緊張感がほどけ、気持ちがオフになる。

出勤のために家を出れば、緊張感が体中にまとわりつき、時には憂鬱な気分になるかもしれない。

家の中というウチ。

職場というソト。

この世はすべて

「それ」と「それではないもの」

で、分けられている。

なぜなら、人は「分ける」ことでしか世界を認識できないからだ。

男女で分ける。
仕事と遊びで分ける。
親と子で分ける。
犬と猫で分ける。

あらゆるモノゴトに対して「境界線」を引くことによって、暮らすことが可能になる。

じゃあ、分けなかったらどうなるのか?

すべてが同質化された世界とはどんな世界なのか?

Aさんも、Bさんも、Cさんも、

いや、そもそも「名前」という概念すら捨て去るとしたら、もはや、みんな「同じ」である。

性別も何も無い。ある人は髪が長いかもしれないし、ある人は髪が短いかもしれない。でも、それも「同じ人」。

ある人はものすごく力持ちで力仕事が得意かもしれない。ある人はすごく筋力が弱くて力仕事が苦手だけど、同じように力仕事をやらなければならない。なぜなら「同じ人」だから。

あ、いや、待て待て。

そもそも「人」という境界線すら捨て去るとしたら?

今、ここにある「存在」はなんなのだろうか?

・・・。

まあ。こんな感じで、

すべてが同質化された世界など、一瞬にして思考が崩壊してしまうような、次元の違う世界のことのように思える。


だからこそ、人は「分ける」ことで世界を認識している。

ウチとソトで分けることで、気分を変えたり、思考を変えたりしている。

分けることで、人は生きられるとも言える。

魚を食べているとき、口の中に入った「骨」という「異物」を、器用に口から取り出し、排除する。

それと同じように、人の群れも、自分たちの心地よい空間に違和感をもたらすような「異物」が入ってきたとき、排除しようとする。

いじめ。嫌がらせ。同調圧力。

自分たちの「ウチ」から異物を「ソト」へと排除しようとするのだ。

それは、自分たちを守るための行動。

そして、「ソト」に出された人間は、また自分の殻という「ウチ」に閉じこもることになる。

みんないっしょに仲良くしようね!なんて口では言っていても、自分たちの「ウチ」を荒らす異物は容赦なく排除するのが人間なのだ。

人間は「分ける」という行為がデフォルトで備わっており、それは生存するための重要な機能である。

狩りができるヒトと、狩りができないヒトを「分ける」ことで、自分たちの食料確保の基盤を固めてきたのかもしれない。

ともに歩もうとすればするほど「排除の力学」が強く働くのは、なんとも皮肉だなあと感じる。

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