想咲繰栄斗

特に何者でもないタイプの人間です どうでも良い考えとか自分の内面をアウトプットしていき…

想咲繰栄斗

特に何者でもないタイプの人間です どうでも良い考えとか自分の内面をアウトプットしていきたい フォローはされればしますが、自分からはしませんシャイなので

最近の記事

身に覚えのない罪悪感。

冤罪で捕まった人が、58年後に無罪という記事を見た。私は58年という時間を体感したこともないし、刑に服したこともないので気持ちは分からないが、とてつもない時間、身に覚えのない罪悪感を持たなければならなかったのだろう。  我々は冤罪かそうでないか確かめる術がない。だから殺人事件の犯人が捕まったというニュースが出た時、いちいちこれは冤罪かもなんて思わないし、1週間もすればその事件の事すら忘れる。どこか他人事。それが我々と冤罪の距離感。 冤罪が発覚したのは今回が初めてではない。

    • 嫌いな奴だが、役に立つ。

      私の見立てでは、私ほど自分本位の人間はいない。それぐらい私は私の為に生きているし、あらゆることは結局は自分の為だと言いきれる。他人に優しくすることもあるが、自分自身に向ける優しさに比べれば微々たるものだ。 そんな私は、他人の為に自分の時間を使い、他人に優しさを向けて生きている人のことを尊敬している。真似したいとは思わないが、決して私にできる生き方ではないから。少なくともこういう人に出会った時には優しさを向けられる人間であろうと思う。 だからこそ、優しい人を装っている奴は嫌

      • 反響する声、冷める身体。

        高校生の時まで私はお風呂場で歌うという行為をしていた。常日頃からやっていたわけではないが、気分の良い時はやっていたような気がする。しかし、ある出来事を境に私はお風呂場で歌うのを辞めた。 お風呂場で歌うと反響するから気分よく歌える。だが、気分よく歌えるということは声を徐々に張っていく。そうすると、自分が気分よく歌っているのを聞かれるリスクが高まる。高校生だった私は、愚かにもそのリスクに気が付かず、歌っていた為に他人に歌っているのを聞かれてしまった。 お風呂上がりに、歌上手か

        • 派閥と闘争。

          皆さんは、こんな問答を聞いたことがあるだろうか?「アナタは犬派ですか?猫派ですか?」という問答。どちらかの派閥に所属しているという方もそれなりの数がいると思う。しかし、そんな派閥に属するのは今日限り辞めたほうが良い。 我々は争いは良くないと言いながらも、日々心の奥底にある闘争の気持ちを抑えきれずに、争いの火種を探している生き物だ。その犠牲になった1つが犬猫論争だと私は睨んでいる。犬や猫からすれば、種族間での対立をしていたわけでもないのに、ある日突然睨み合いをさせられる関係に

        身に覚えのない罪悪感。

          覚悟を問うなら。

          有名人への誹謗中傷に対する意見にちらほら見かけるものがある。人前にでる仕事なんだから、ある程度覚悟してその職についているんじゃないのかというものだ。 一理ある意見とも言えるが、もしその意見がまかり通るなら、自分が働いている環境でも自分の首を絞めることになるかもしれない。例えば、給料や労働環境に対する苦情を入れても、そんなことは端から覚悟してうちの会社で働いているんだよね?と言われたらそれ以上は言い返せない。もちろん、この手の覚悟を他人に問う人間は、自分もそれなりの覚悟を持っ

          覚悟を問うなら。

          読書と孤独。

          かの有名な太宰治がこんな言葉を残している。「本を読まないということは、そのひとは孤独ではないという証拠である」とね。 月に1冊も読書をしない人が6割ぐらいいるらしい。まあ、ネットかなんかで見た話だから、どこまで信憑性のある話かは分からないが、これが本当なら今の社会には孤独な人が少ないってことだ。半数以上が孤独じゃないんだから。 でも、今の時代は人と人との繋がりが薄いって話もよく耳にする。孤独ではないまでも、人間関係に煩わしさを感じる人も少なくないだろう。なら太宰治のいう読

          読書と孤独。

          優しいところもある優しくない人。

          こんな感じだけど、優しいところもあるんだよっていうのを聞くたびに、そりゃそうだろうと思う。手当たり次第周りに威嚇してるあのチンピラもヒステリックに叫ぶ名物おばさんも、店員に強く出るダメ彼氏も探せば優しいところぐらいある。 だけど、そういう人が優しい人かって言ったら話は変わってくる。まあ、人によったら優しい人だよって答える人もいるんだろうけど、比率でいったら優しいところもあるって称される人は優しい人ではないだろう。 気を使って優しいところもある人だよなんて言わなきゃいけない

          優しいところもある優しくない人。

          頑張りと対価。

          頑張りにお金は払われない。人々がお金を払うのは頑張りではなく、結果や知名度だ。まあ、これは当然といえば当然の話でそこに疑問を持つ人はあまりいないのではないだろうか。 しかし、それに反するように、頑張っている人が報われてほしいという人は少なくない。頑張りにお金は払わないのに、何故そういう気持ちになるのだろう。正確にいえば、その気持ち自体は理解出来るものだが、なら何故頑張りに対してお金を支払わないのだろうか。 実際は、頑張っている人が報われる云々なんていうのはどうでも良くて、

          頑張りと対価。

          大人のいないないばあ。

          赤ちゃんは生後間もない頃、「いないいないばあ」で大人が顔を隠すと、本当にいなくなったと思うらしい。これは私が適当に言ってるわけじゃなくて、ピアジェっていう偉い学者が提唱している「発生的認識論」の一説だ。 ところが、最近思うのは、大人になっても同じような人がいるんじゃないかということだ。例えば、問題が消えてなくなったわけじゃないのに、表面的に見えなくなるとそのまま放置する人たち。あだ名禁止や容姿イジリ禁止の議論なんて、まさに良い例だ。 表面的にはやらなくなっても、裏でいくら

          大人のいないないばあ。

          選択のギャンブル。

          私はギャンブルは基本的にしない。人生の二択を外し続けてきてる人間がギャンブルをやった日にはろくな結果にならないからだ。私は利口ではないが、それぐらいの頭は持ち合わせている。 しかし、人生の選択はいくら遠ざけて関わらないようにしていても、選択の瞬間は突然にしてやってくる。色々準備して待っていてもなかなか当たりは引けない。運が悪いのか、頭が悪いのか、それともまだまだ準備が足りないのか、原因はハッキリしないけど、負け続けてるんだからなんかが足りないんだろう。 そうやって準備をし

          選択のギャンブル。

          守られる時代、守られなかった時代。

          個性や多様性という言葉に守られている今の時代。それを悪用している奴もいる。LGBTの話なんてまさに個性や多様性を悪用しようとする奴らに目をつけられてしまった1つだろう。 性別は男でも心は女、まあそこまでは良いだろうが、なので更衣室や温泉なんかは女性として利用しますなんて馬鹿なことをいう輩がいる。こういう奴らのことさえも個性や多様性という万能な言葉は守ろうとしてしまう、万能すぎるが故にね。 そもそも、LGBTに該当する様な人は今の時代になる前から存在していた。今みたいに都合

          守られる時代、守られなかった時代。

          大差のない選択。

          他人と同じだからといってそれが必ずしも、正しい訳では無い。こういう考え方は大切だと思う。しかし、この考えを大切にする上で1つ肝に命じなければいけないのは、他人と違うからといってそれが必ずしも、正しい訳では無いということである。 人と違う道を行く選択は時に必要であるが、人と同じ道を行く選択も必要だからである。状況やその場の空気感等を見極めてその中で取捨選択をしていく、それが大切なことだ。 安易に周りと同じ選択を取ることも、安易に他人と違う選択を取ること、どちらも本質的に大差

          大差のない選択。

          日常に潜む審査員。

          皆さんにも好きなことの1つや2つあると思う。だが、現代において、自分の好きなことを公表するのに躊躇いがある人もいるのではないだろうか。 私はその原因の1つに各ジャンルに審査員の様な輩が紛れているからだと考えている。音楽、アニメ、映画にファッション、スポーツや政治等あらゆる所に奴らは潜んでいる。 そして、口々にこういうのだ。「このジャンルを好きっていうなら、これぐらいは知っといてもらわないと」とか、「こんなことも知らないの?ニワカ乙」だとかね。 仮にその登竜門的なものを作

          日常に潜む審査員。

          独裁者のススメ。

          世の中には色んな人がいる。例えば、好き嫌いで必要か不必要かを決める人。 こういう人は気持ちは分からなくはないが、正直考えが浅いのではないかと思う。自分が嫌いだからこれは世の中には不必要なんて論調がまかり通るなら、世の中には何も残らない。どんなものでも、好意的な人も否定的な人もいるのだから。 自分が好きなものだけ残して、嫌いなものは排除したいなら独裁者になることをオススメする。それだけの力があればだが。もし、それが叶わないのなら世の中諦めも肝心だ。大人しく自分の嫌いなものと

          独裁者のススメ。

          直感という名の先入観。

          SNSで「この人はなんか嫌だなと直感的に思ったら、だいたい嫌な奴だった」といった内容を目にした。直感は当たるものだ、というわけだ。 しかし、私はそれが単なる先入観に過ぎないのではないかと思う。元々その人に対して良い感情を抱いていないのであれば、何か一つでも引っかかるところがあれば、それを理由にやっぱり嫌な奴だと結論づけてしまうだろう。 疑念を持ちながら、決してフラットではない心の状態で相手に接した結果として悪い印象を持つことは、本当に直感が当たったと言えるのだろうか?

          直感という名の先入観。

          欠点と偉人と言い訳と。

          誰かに自分の欠点を指摘されると、どこからともなく偉人だの有名人だのを引っ張り出してきて、自分のことを正当化しようとする奴がいる。遅刻癖を指摘されたら、偉人も遅刻してたけど成功したんだから、自分の遅刻なんて大した問題じゃないとでも言いたげだ。 結局、それはただの言い訳だ。自分のクズさを誇らしげに語ってるだけで、まるでそれが何かの偉業であるかのように振る舞っている。自分を守りたいという本能は理解できるが、社会の中でそれを通すのは間違ってると私は思う。 でも、今の社会じゃ、そん

          欠点と偉人と言い訳と。