ダンジョン飯と資本主義   欲望 神話 創作

ダンジョン飯の最終巻を読んだ。

発売日に読んでから、暫くおいて読み直した。
初見は興奮して、物語の顛末を追うだけになってしまうから、先を知ってからようやくあれこれ考えて読めるようになる。

ぼんやりと色々なことが頭に浮かんだが、
最後に残ったイメージは、同じ九井諒子の短編であった。

たぶん初期のほうのやつで、天使のような(あるいは竜か?)翼をもった少女の初飛行を、少年が手助けするというような短編だったと思う。もう随分おぼろげな記憶である。

そこの本棚の後列にあるのを確認すればいいのだが、
今は勝手なイメージで想像を膨らませてしまう。
書き終えたら読もう。

イメージは、画像で数枚浮かんだようだった。
書き記すと以下のようなものだ。

羽を持つ少女は、普段は一緒に生活をしていたが、
いよいよ飛べそうだということで、少年はそれを手伝う。

少年は性差に、そして同様に過ごした彼女がみせた、
存在としての根本的な違い(羽・飛翔)にたじろぐ。

そこにはやや複雑な感情が想起されるが、
彼女が飛ぶことを願い、そしてその成就によって、
すべてが報われたように晴れ晴れとした気分になる。

最後は飛行した彼女が街を見下ろす
バックショットの景色がイメージされる。

本当にこんな話だっただろうか。
でも大筋はそこまで変わらないと思う。
重要なのは、これが自然にイメージされたことだ。

言うなれば自発、というのがふさわしい。
元があるとはいえ、僕はそういう気分になって、
そういう物語と景色と感情がとうとうと湧いた。

これはなんだろうか。と自問したとき、
これは神話の起源や、創作や欲望だと思った。

人を人たらしめるのは、物語であるというのは前提として、
近代以降の我々は、神話を含め、大きな物語を失った。
その復活は、未だ成功したとは思えない。

あるいは、ウェーバーなどは、資本主義の宗教性を示唆したというから、経済のシステム自体が、その代替物ともみえる。

ダンジョン飯は、欲望と食事と生の物語だった。
だが、テーマのわりにその語られ方は理論的である。
それは、ざっくり宗教性が薄いと言ってしまってもいい。

そこがとても興味をそそられるところだった。
物語は、その特性上、何らかの宗教性を帯びやすい。

それでも、九井諒子は短編を積み重ねることによって、
既存の宗教的イメージの手助けなく、物語を纏め上げた。

もちろん、様々な設定や意匠は借りてきているし、
語られたテーマこそ仏教や基督教にあるかもしれない。
けれども、それをその匂いをさせずに調理する事ができた。

これが今の物語の、スタートライン。
もしくは終着点なのだろうと思う。

我々はいま、物語に飢えている。
新しい宗教性を持つ、新しい神話を渇望している。

それは、既存の神話や宗教には当てはまってはならず、
希望と救済を与え、信仰に値する物でなければならない。

汎ゆる作品が、過去の創作物のブリコラージュ的で、
消費に値しても、信仰には値しない不完全な神話のなか、
ダンジョン飯が示唆するのは、その物語の終焉ではないか。

少なくとも私にはそう思うことができた。
だからこそ、冒頭で述べたイメージが湧いたのだ。

今まで、数多の物語で、少女は希望の象徴となったが、
ナウシカを始めほとんどが消費されてしまった。
もちろん、わたしも消費者のひとりだ。

そして、それは少年だって同じことで、
物語が消費したのは無垢や純粋だったのだと思う。

あるいはそれを、夢だとか、希望だと言う人もいて、
物語なのだから、その真偽は重要ではないと言うだろう。

けれども、物語にとって重要なのは、真偽ではない。
もうお察しの通り、それは信じられるかどうかにある。

信じられない物語は、これからも残り続ける。
それは、産業として、欲望の受け皿として消費される。

それでも、その中に、信仰に値する物語が出始める。
それは、我々が永く待ち望んでいたこともあって、
その準備がいま整って来ているのだと思う。

しかし、資本主義は、それすら味わう悪魔かもしれない。
いくら信仰に値する物語だとしても、産業が絡めば、
経済が絡み、本来の神性は失われてしまう。
たとえば鬼滅の刃のように。

もちろん鬼滅の刃は時期尚早というのもあるので、
これからの物語にはそれを凌ぐ余地が残されている。


【おまけ】


…ということを踏まえてダンジョン飯を見ると、
欲望を原動力とする悪魔は資本主義に読めるし、
イヅツミが自由を考えるのは重要なシーケンスだ。

彼女は半獣ながら、チルチャックらの社会性を学び、
センシやマルシルの例で社会学的な弱者の目線を持つ。

もう少し。
ではそもそもの悪魔を倒したライオスとは何か。

それは、資本主義という人外のシステムでも、
人類の存続に仇なすのであれば打倒する。
という意志と読むのが自然だろうか。

文面だけだととても左翼っぽいが、
要するにそういう気概だと思う。

我々は資本主義、ひいては政治や経済、制度や社会を、
人の手ではもうどうすることもできないと諦めている。

ライオスが教えてくれるのは、そんな相手に対しても、
生物として食うか食われるかの闘いに挑むことだ。

それは無生物に対する生物の意地であり、
人間の尊厳と言ってもよい。

ダンジョン飯が持ち得る神性は、ここにある。





【追記】
イメージした短編のモトは「進学天使」だった。
ただ、その短編の持つ印象はイメージとは逆で、
それでも絵のカットや連想した内容は近いものだった。

結局、人間の欲望というのは、
輝かしい欲望と、希望の成就が困難な場合の逃避、
そして逃避の余裕さえ失った際の破滅願望の3つを巡る。

希望≒逃避⇔破滅願望 
人はこれを物語に求める。

希望を見せる物語は、その根拠たる人外の奇跡が必要だ。
およそ物語の中では、その犠牲となる人間が生じる。

「進学天使」はそのアイロニーを描いた短編だった。
何ら晴れ晴れするようなことはなかった。
これは自省として書き残しておく。

ただそれをイメージしたことは寧ろ妥当だった。
今作の主人公、ライオスは竜となり、人間に希望を見せ、
そして人の身でありながら、国王として伝説を引き受けた。
この丁寧な描写と結末は、「進学天使」の逆説的結末なのだ。










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