雑記 書きたいこと、表現について

文を書き始めると、どうしようもなく長くなる。

いつも頭でぼんやりと考えて続けていることや、
全く思考の表面にさえ出てこなかったことも現れる。

文字にしようとすると、自分の頭上で渦巻いていた混沌が、
堰を切ったようにだくだくと溢れ出して一面に広がる。

それは純粋な好奇心や表現欲といった清いものだけでなく、
承認欲求や自己満足などの不純物が多分に含まれる汚水だ。

それをなんとか濾して、残せる程度の言葉に置き換えていく。
だから、自分が納得する文を書き切ることはとても難しい。

今まで幾度となく失敗し、未だ気軽に書けるものではない。
もっと軽やかに、ステップを踏むように言葉を紡ぎたい。
ただ、そのためには幾つかの超えるべき段階がある。

それは自分の感覚に自信や確信を持てるようになること。
あるいは、その表現の先を定める、または考慮しないこと。これからの文章は、それに自覚的に書くよう意識したい。

最近考えていることについて、朧げながら形が見えてきたが、
どうも一度に纏め、書ききれないので、以下に書き散らす。

z世代の自我の類形について、自我を持つものと持たぬもの、
それぞれの違い、背景の考察、アイデンティティの空洞化。
ナショナリスト(地元人間)とグローバリスト(制度人間)
所属集団による社会的役割の変化(地域社会/親≒社会的価値)
実人生の価値・意味の在処、親や社会の子への要請の変化。

また、自我の不確かな人間の確認方法としての自傷的行為、
その観念的な形態としての「とらわれ」への執着の可能性。
自らを縛る「とらわれ」(親の期待・願望/社会常識)が、
同時に自らを守り育てた者である時(アダルトチルドレン)、
それが自己の価値・意味に結びついてしまう場合について。

また、コンプレックスへの偏執による自我の確認という形態。
ある表現、あるいは表現者の抱える屈折した欲望について。
自己の否定的側面への愛憎、歪んだ自己肯定のジレンマ。
私小説的・文学的アプローチによる自我確立の可能性。
芥川龍之介の死/太宰治の死/地に足の付かない人種の生き方。
ナショナリストでもグローバリストでもないあり方とは。

自我(アイデンティティ)の空洞化に無自覚な人間について。
規範を失い、自由に育てられながら、理想的に見えるが、
ぼんやりした不安とともに生き、周囲の承認を糧にする。
その場合の自己実現≒自己演出のなかでの物質界の表層化。
自己喪失が「空」として成立する自我または世界の可能性。

現実より虚構(仮想現実)にリアリティを感じる世代の存在。
ハリボテの世界の可能性。芸術・作品の前に現実は無用か。
今後の世の中における消費以外の価値・生産の内実とは。
生まれた時から仮想現実が現実と交差する人間の現実とは。


…ざっと書いてみたが、まだいまいち腑に落ちない物も多い。
そのうち考えがまとまって、それが納得できる言葉になって、
自分の好奇心と表現欲が満たせれば良いなと思っている。

こうして吐き出すだけでも、悶々と考え続けるよりマシだ。
そういう意味では、これもある意味では成長だと思いたい。

創作の意味とは、たとえどんな醜態を晒すものだとしても、
渦巻く何かに形を与え、それ目に見えるものとすることだ。

それは何よりも己の為であるが、その形が洗練されることや、
その生み出したものが少しでも誰かの価値となることを願う。
それが何かを公に表現する者のあり方の一つだと想像する。










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