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あたりまえなんてない

そう気づくことが今の自分をつくった、
のかもしれないとふと思った。

今の自分は、カラフルなTシャツが好きだ。
自分自身もいろんな色の経験や専門やコミュニティを持っていたいと思う。
自分と違う意見は面白くて、自分と全く違うバックグラウンドの人との話は興味深い。
それぞれがその人らしく生き生きできて、まわりも他人のその人らしさを尊重できる、そんな人の集まりでできたコミュニティが好き。


そのあたりからか、中々いないタイプの人だねって言ってもらうことが多い。考えを押し付けたりしないよねって。
だけど、昔からそうだったわけじゃない。

高校までは自分に対しても他人に対してもガチガチで、かたい人だった。意識的じゃないにしても白黒つけたがっていて、「正しい」「間違っている」の二色の価値観だった気がする。強い自分の論があって、でもそれを周りは理解してくれないと家族でさえシャットダウンして、文字通り「かたい人」。


高校を卒業してインドの田舎に半年すんだ。
カルチャーショックはなかったにせよ、やっぱり全く違う世界。
だけど、そんな全く違う世界でもそこにいる人たちは彼らのあたり前の中に生きている。帰国したら既に日本の生活は自分にとってあたり前じゃないのに周りの人はあたり前を生きている。

あたり前なんてないんだ。
なにが普通でなにが普通じゃないとか、なにが良くてなにが悪い、なんて単純な世界じゃなくて、全てがいろんな面を持っていているんだ。そう「思った」、のではなく「体感した」。

世界にはいろいろな人が想像もつかないくらいいろいろな生活を送っている。それなのに全ての人に同じ時、同じように時間が流れていて、それぞれがそれぞれのあたり前の毎日を送っている。そのことがとても不思議に思えた。

これは帰国直後にまとめた写真集の一部。
数週間後に「目に見える程度は違えど、一人一人の人が同じ時同じように時間の流れの中で全く違うそれぞれのあたり前の中を生きている、その不思議さはラダック(インド)でなくても自分が存在するところにはどこにでも存在していました」と書き加えてた。


その時は単純にそのことを痛感しただけだったけど、それが自分にとってどんな意味があるのかはわからなかった。

今日、ふと思う。

この時の体感と気づきが今の自分の考え方の基盤になったんだなぁ、と。


人はみんな違う。
性格も感じ方も、得意なことも苦手なことも。それはその人のこれまでいた環境とかしてきた経験とかにも影響されていると思う。その全てがその人にとっての「あたり前」の世界で、とすると基本的に完全に人を理解することはできない。

自分の意見は自分のあたり前から生まれた、自分の意見でしかない。
ただ、理解できないことは理解しようとしないこととはなんの関係もない。
わからないからこそ、理解しようとするし、自分の立場で正直にできることだけをする。それで十分じゃないかな。


「なにがあたり前」がない社会で、人も「こうあるべき」「これが普通」なんてない。それぞれがそれぞれらしくあるのがカラフルで素敵だし、当然優劣で考えるなんてナンセンス、みんな自分の価値観で生きているのだから。

白黒で考えるのより、カラフルに考えた方が人生楽だし、楽しいと思う。少なくとも私にはそうだなぁと思う。そういう価値観になってからの方が自分の好きな自分でいれてるし、人も大切にできてる気がする。


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