あの日、さよならをくれた君へ(短編小説)
あの日、さよならをくれた君へ
なんとなく、彼とはいつまでも、このままの関係でいられると思っていた。
どうしてそう思えたんだろう。
今日と同じ明日が訪れる保証なんて何もないのに。
彼女でも、ましてや友達でもない。ただの、幼馴染。
彼の方から初めて連絡をもらって、スマホの画面を二度見、どころじゃなく、何度も確認した。どれだけ見直しても、画面に表示されているのは、間違えようもない彼の名前で。
誰かの悪戯なんじゃないかと疑って。
でも、本当に彼だったら待たせちゃいけないと、慌てて気持ちを切り替えて。胸をドキドキさせながら待ち合わせ場所に着いた。
そこで待っていたのは、間違いなく、彼だった。
彼の姿を見つけた瞬間、心臓が爆発しちゃうんじゃないかってくらいに、激しく鳴り出した。
うっかり、何かが始まる予感がしてしまった。
「ごっ、ごめん、遅くなっちゃって」
緊張で声がひっくり返ってしまって、赤い顔が、一層赤らんだ。
「いやこっちこそ、急に呼び出してごめんな」
彼は、いつも通りの、弾けるような笑顔でそう言った。
そんな無邪気な笑顔で、彼は急に私を呼び出し、そして、
「さよなら」を告げた。
彼が待ち合わせ場所に指定したのは、丘の上にある小さな公園。
私達の住む街の一角が見渡せる。そこから眺める沈みゆく夕日は、とても美しい。
「ここから見る夕日も、今日で見納めだな」
彼が最後に呟いたその言葉は、まるで明日、彼がこの世から消えてしまうんじゃないかと思わせた。
昔、私達はよく、この公園で遊んだ。
まだ、私が彼と話すことに緊張なんてしていなかった頃。
まだ、私が彼よりも背が大きくて、駆け足も早かった頃。
彼はよく、一つ年上の男の子と遊んでいた。
私は仲良く遊ぶその二人の中に入って、一緒に木登りもしたし、砂場でトンネルを作って水を流し、泥だらけになったりもした。
あの頃の私達には、友達とか、恋愛とか、人間関係とか、そんな難しいことは一切なくて、ただ、目の前にある遊具で、木で、草で、花で、砂で、全力で遊んで、泥だらけになって笑っていた。
小学校は2クラスしかない小規模校で、クラス替えも2年に一度しかない。彼とは3年生の時から、ずっと同じクラスだった。
人数が少なかったから、みんなが広く、浅く、友達みたいな雰囲気で、同学年の子の顔と名前は全て知っていたし、そういえば、新しい友達づくりというものを、小学校でしたことがなかった。
中学になり、一気に7クラスになった。1クラスあたりの人数も増え、大規模校だった中学校に、私は気後れしてしまった。
1年生のクラス分けで、私は不運にも、同じ小学校からの生徒が4人しかいないクラスになってしまった。けれどその少ない数の中に彼がいたことは、私にとって大きな救いだった。
大規模小学校から来ているだろう子たちは、すでに気心が知れた会話を楽しそうにしている。私はその輪の中に入る勇気がなく、タイミングを逃しているうちに、すっかり孤立してしまった。あっという間に女子の間にはいくつかのグループが形成されていた。
クラス委員になった女の子に、連絡に便利だからと、クラスのSNSグループに誘われ参加したけれど、毎日そこで大量に流れていく会話には、時々同意のスタンプを押すのが精一杯だった。
クラスのSNSを通じて、何人かの女子からはフレンド申請が来た。
けれど、どの子も「よろしくね」のあとの会話は続かなかった。
そんな、初めのうちのフレンド申請の波に遅れること数週間後。彼からもぽつりと申請がきた。特にそこで会話を交わしたことはなかったけれど、彼と繋がることができて嬉しかった。
中学の制服に身を包んだ瞬間、小学校までの、誰とでも仲良く話せた私は、どこにもいなくなっていた。
女子ともろくに話すことができない私は、男子との会話などできるはずもなく、ただ、遠くから彼を見つめるだけの存在になった。
小学校の頃はあんなに楽しく話せていたのに、ただ制服を着ているというだけで、彼はとてもとても遠い存在のように思えた。
彼は持ち前の明るさとルックスで、知らない学校の友だちともすぐに仲良くなっていたし、教室の女子だけでなく、他のクラスの、知らない女子からもよく声をかけられていた。
時々女子に呼び出されては告白をされていたようで、「私も告白してみようかな」「あの子も振られたみたいだよ」なんて噂をしている会話が、よく聞こえてきた。
昔から仲が良かった、一つ年上の男子のクラスによく遊びにいくからか、先輩からも告白されることは少なくなかった。
とてもモテるのに、特定の女子と付き合う気配がない彼に、女子たちが玉砕した話を聞く度に、私は少し、ほっとしていた。
彼のことを好きになったのは、いつからだろう。
明確に、彼を意識したのは、中学1年の2学期頃。
その頃の私は、嫌な夢をよく見ていた。
上履きを隠されたり、体操服を汚されたり、スマホのメッセージを通じて酷い言葉を投げつけられたり。その夢はとてもリアルで、ゴリゴリと私の精神力を削っていった。
夢で見るようなことは、現実では、一度も、誰からも、されたことがない。
誹謗中傷が書き込まれた気がするSNSのチャット画面を何度確認しても、そこにはただの空白が存在していた。酷い言葉を言われたわけではないけれど、誰からもメッセージは届いていない。それは私がただ、クラスで孤立しているという事実を突きつけてくるだけだ。
どうしてこんな酷い幻覚や幻聴が起こるのだろう。ただ、自分から声をかける勇気がないだけなのに。
クラスの女子から向けられる視線が怖かった。
言われたこともない、私を貶める言葉が聞こえる気がして、いつも怯えていた。
私は、自分は何かの病気なんじゃないかと思っていた。
そんな嫌な妄想にとらわれはじめていた頃、頻繁に彼と目が合うようになった。それは、私が彼を見つめているからなのかもしれないけれど。
彼は私と目が合うたびに「おはよう」「元気?」と必ず何か一言話しかけてくれる。そんなたった一言がとても嬉しくて、彼が同じクラスにいてくれたから、悪夢のような妄想と戦い、孤立して居場所のない教室に、毎日通うことができたのだと思う。
2年になって、私は彼とクラスが離れてしまった。
けれど、美術部で仲良くなった子と同じクラスになり、新しいクラスに小学校が一緒だった子たちが多かったことから、私はまた少しずつ、人と会話できるようになっていった。
嫌な夢を見ることも、妄想も幻聴も、いつの間にかなくなっていた。
1年のときの、私の周りに取り巻いていたあの重苦しかった空気は、いつの間にか消えていた。
クラスが変わっただけでこうも世界は変わるのか、と思うほどに、私の周りは穏やかになった。1年のとき、酷い妄想の中に出てきたクラスメートがいなかったことも、幸いしたのかもしれない。
なぜだかわからないけれど、私は彼に、ずっと守られていたような気がしていた。それは私の勝手な妄想で、錯覚で、ただの恋心だったのだと、今は思う。
でも、彼が同じクラスじゃなかったら、私はきっと今頃、こうして学校に通えていなかったと思う。彼の笑顔には、何気ない言葉には、それだけの力があった。その笑顔はもちろん、私にだけ向けられたものではないけれど。
クラスが離れても、時々すれ違う彼を目で追ってしまう。そうして彼と視線が交わると、彼は必ず手を上げて「よぉ!」と短く挨拶をくれる。
私が「おはよう」と笑顔を見せると、彼は穏やかに微笑む。
それだけの関係。
2年になって、少しだけ自信を取り戻した私は、無謀にも彼に、告白をすることにした。
もちろん、私の告白が成功するなんて思ってもいないし、彼からの答えもわかっている。ただ、彼の存在に私は救われた。この気持ちを、どうしても彼に伝えたくなった。
「あの……すっ好きです!」
緊張して声が裏返ってしまった。
彼が「あ」と口を開いた瞬間、私はすぐに言葉を続けた。
「あっでも! ただ、この気持ちを伝えたかっただけだから! 返事はいらないです。このまま、好きでいさせてください! ご迷惑はおかけしません! これまで通りでお願いします!」
それだけ早口で一気に捲し立て、彼の前から走り去った。
心臓が口から飛び出てしまうんじゃないかというくらいドキドキしていた。
次に彼と目があったとき、彼はどんな反応をするだろう。
やっぱり告白なんてしないほうがよかったのかもしれない。
ただ、毎日彼と挨拶するだけで満足だったのに。
それさえできなくなったらどうしよう。
そんな私の心配をよそに、彼は次の日も変わらず「よぉ!」と無邪気な笑顔で挨拶をしてくれた。告白され慣れてる彼にとって、私の告白など、その程度のことだったのだ。
私は拍子抜けして、そこから少しずつ、小学校の頃までとはいかないけれど、彼とほんの少しの会話をすることができるようになっていった。
彼と同じ高校を受験して、高校一年で彼と同じクラスになれたことは、奇跡だと思った。
高校でも彼は、やっぱり目立つ存在で、早々に女子からの人気を集めていた。私はクラスで気の合う友達ができて、なかなかに良い高校生活をスタートできた。
そんな中で届いた、彼からのメッセージ。
『急でごめん。今から少し会えないかな。小さい頃によく遊んだ、丘の上の公園で待ってる』
長年空白だった彼とのチャット画面に、突然届いた彼からのメッセージ。中学一年の時にきたフレンド申請のあと、「よろしく」「こちらこそ、よろしく」でずっと止まっていた時が、3年越しに動き出した。
けれど、動き始めたと思った時間は、それきり、再び、永遠に止まってしまった。
私服だからか、それとも夕暮れ時の公園というシチュエーションのせいかわからないけれど、今日の彼は、いつもと少し雰囲気が違って見えた。微笑んでいるけれど、いつもの無邪気なそれとは違う。どこか遠くを見ているような、とらえどころのないふわりとした笑顔。
「――あの時の返事、いらないって言われたけど、きちんとさせてもらえないかな」
「あの時って……中学の頃に告白した時のことだよね……あっ、あれはもう、気にしないで! 逆に、忘れてほしいし」
彼の、半分夕日に照らされた顔から微笑みが消えて、とても真剣な表情になった。
「おこがましいかもしれないけど、俺が君に返事をしないままでいたら、君がこの先、前に進めなくなることもあるんじゃないかと思って。……なんてかっこつけてるけど、ただ、俺がけじめをつけたいだけなんだ。気持ちを投げられっぱなしってのも、居心地悪くて――悪いな、こんなことに付き合わせて」
「……なんかそれって、まるでここから消えて、いなくなっちゃいそうなセリフだね」
彼は静かに笑った。
「入学してから三ヶ月経ったけど、最近どう? ちょっと遠い高校だから、俺の他に、同じ中学のヤツ、少ないだろ?」
彼が急に、そんなことを呟いた。
「うん、前の席の子がね、イラストを描く子で。好きな漫画とか、映画とか、趣味も似てて、とても話しやすいんだ」
「そっか、よかった」
そう言うと彼は、穏やかに微笑み手すりにつかまって夕日を眺めた。
太陽はちょうど、街と空の境目にたどり着き、これからその身を地平線の向こうに隠そうとしていた。
「ここから見る夕日も、今日で見納めだな」
いつもと、どことなく雰囲気が違う彼に戸惑った。
急に不安になって、今日の彼を、何らかの形で残しておきたいと思った。
「写真……撮っていいかな。夕日をバックに。すごく綺麗だし。あ、別に変な意味はないよ……いや、でも振られたのに、迷惑かな……」
「いいよ」と彼は頷いて、夕日を背に向けた。
私は彼の前に回り込み、スマホ越しに彼を見つめる。
美しくて。
儚げで。
夕日を背に微笑む彼は、本当に、この世界から消えてしまいそうに見えた。
彼の胸元には、ペンダントが光っていた。
しずく型の青い小さな宝石は、彼が流した涙のように見えた。
ピアスとか、ペンダントとか、アクセサリーが似合いそうな雰囲気の彼だけれど、これまでそういったものをつけたところは見たことがない。女性もののような気がしたし、それはおそらく、彼の大切な人と関係があるのだろう。
そして本当に、
彼はその日を最後に、
この世界から消えてしまった。
*
高校を卒業し、大学2年になった頃、中学の同期会の案内が来た。
美術部で仲が良かった玖美子から「行ってみない?」と誘われ、行くことにした。
もしかしたら、彼も来るかもしれない。
そんな期待をほんのり抱いていたけれど、会場をどれだけ見回しても、彼の姿はなかった。
同期会の幹事の一人で、小学校が一緒だった木村くんが、ワインのボトルを持って私達に近づき「楽しんでる?」と赤ら顔で言った。
玖美子はすかさず、彼は同期会に来ないのか、と訊いた。
「あ~なんかどこかに留学したまま、ずっと海外にいるみたいで、連絡とれなかったんだ。もし今後、彼の連絡先がわかったら教えて! 次は絶対に呼ぶから」
そう言うと木村くんは、私たちのグラスにワインを注ぎ、隣のテーブルに挨拶に行ってしまった。
「残念だったね」
そう玖美子に言われ、「なんで?」と驚いたけれど、どうやら玖美子はとっくに、私が彼をずっと好きなことに気づいていたようだった。
「あれだけわかりやすく見つめてたらね」
きっとみんなにも、同じように私の気持ちは筒抜けだったのだろうと思うと、今更ながら恥ずかしさで消えてしまいたくなった。
この日、彼とは会えなかったけれど、同期会の幹事だった木村くんに、実はずっと好きだったと告白された。中学のときは、私が彼をずっと目で追っていたことを知っていて、告白することすらできなかったそうだ。
「もし今フリーなら、お友達からよろしくお願いします!」
酔った勢いもあったのだろうけど、「じゃあ……友達から」と私は応え、そんな感じで始まった私達の関係は、本当にトントン拍子に、結婚の話までいってしまった。
玖美子から聞いた話だと、木村くんは同期会の幹事を引き受けた時に、私のために、彼の行方をけっこうしっかりと探してくれていたようだ。自分の好きな人の好きな人を必死に探してしまうなんて、お人好しにも程がある、と、私は木村くんのそんな不器用な優しさに、どんどん惹かれていったのだ。
木村くんは、彼のことが好きだった私を、まるごと受け入れて好きになってくれた。
「不思議なやつだったよな」
と時々彼を懐かしむようなことも言う。
「あいつとは小学校の3,4年でクラスが一緒で、中学になってからもそんなに話したことないはずなんだけど……気の合う仲間、みたいな雰囲気を感じていたんだ。まあ、顔も人当たりもよかったから、あいつが醸し出してる雰囲気ってだけなのかもしれないけど」
横浜の港を二人で歩きながら、そんな思い出話をしていた。
ちょうど夕暮れ時で、海に沈む夕日が美しかった。
私がその夕焼けに見とれていると、木村くんが写真撮ろうか、とスマホを取り出し、夕日を背に二人並んだ。木村くんはスマホを持った手をぐいっと伸ばす。
「ありゃ。ボケちゃった。ごめんもう一度……」
再びぐいっと腕を伸ばす。
「ふふっ、木村くん、半分写ってない」
そんなやりとりをしていると、「写真、撮りましょうか?」と中高生くらいの女の子が声をかけてきた。
「あ、お願いできますか? ありがとう」
木村くんがスマホをその女の子に渡す。
女の子は写真を撮ると「こんな感じに撮れました。どうですか?」と木村くんに見せる。私は、その女の子の首にかかっていた、しずく型の青い宝石がついたペンダントに彼を思い出し、胸の奥がきゅっとした。
「アクアマリンです。私の誕生石なの」
私がペンダントをじっと見つめていたことに気付いた女の子が、そう教えてくれた。
「おーい、みらい、行くぞ」
父親に、そう声をかけられて、その女の子は「お幸せに」と私達に笑顔を見せ、父親のもとへ駆けていく。
こちらに向かって軽く会釈した父親と、楽しそうに話しながら並んで歩く、その女の子の後姿を見ていたら、これから先の私の未来も、あんなふうに幸せなものになるような気がして、隣の木村くんに微笑んだ。
大丈夫。私は前に進んだよ。
心の中の彼に、そう呟く。
あの日、夕焼けを背に微笑んだ彼は、「さよなら」を告げに来たんじゃない。
きっと、私の幸せを願ってくれたのだ。
ありがとう。
あなたも、どうか幸せでありますように。
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