「何故?香港へ?」~後半~
2)香港にハマり出す
香港映画を観始める
初めての香港旅行を終え帰国した後も、あのエネルギッシュで活気に満ちた余韻が覚めず、TSUTAYAへ行き香港映画コーナーを覗くと『ルージュ(胭脂扣)』アニタ・ムイ(梅艷芳)、レスリー・チャン(張國榮)出演1987年の作品が目に留まりました。
ストーリーの時代設定が古いファンタジーでしたが、ノスタルジックな空気が漂う描写や会話(広東語)のテンポに邦画とはまた違った興味を持ちました。
それから、『君さえいれば(金枝玉葉)』『欲望の翼(阿飛正傳)』『ブエノスアイレス(春光乍洩)』『つきせぬ想い(新不了情)』『天使の涙(
堕落天使)』・・・
そして、香港の街なかロケの『恋する惑星(重慶森林)』は特に好きでした。電影(din6 ying2)ファンの皆さんほどではありませんが、次第に観るようになりました。
広東語を習い始める
次に興味が湧いたのは、広東語。"ケイコとマナブ"で学校を探すもほとんど見当たらず、各国出身者によるマンツーマンレッスンの斡旋所へ問い合わせ、香港人女性の先生を紹介してもらいました。
すると、レッスン場所となったのは、新宿ルミネ1にあるレストランフロアーのベンチ。
広東語は発音が難しいと聞き、何度も声を出し練習してなんぼ。目の前の人の往来、ピザやお好み焼きなどの匂いがプンプンと集中できず、場所を変えて欲しいとお願いすると今度は東京体育館のベンチ。
教材は自分が書店で買った単語本を使い、その都度「今日はどのページを教えて欲しいの?」と安易なやり方で1時間確か4千円弱。
ある時、その先生から「お願いがある。ドラマの○○を録画して香港のこの住所に送って欲しいの。友達から頼まれてるんだけどビデオデッキが壊れちゃって」と。
香港旅行では現地の方々に親切にしていただいたし・・・と一度その頼みを聞きましたが、送り先はシャムスイポー(深水埗)。後から思えば、ねぇーですよね。もあり習うのは辞めました。
香港大学へ語学滞在
東京で"香港"というワードに敏感になっていると、ある日「香港大学~広東語の冬期講習~」的なタイトルで、同大学生の冬休み期間に特別授業として日本人向けに広東語を教えるという宿泊込みの語学プランを発見。
当時、ビザなしの滞在は30日間。よって、授業は月~金の午前中3時間 x 4週。宿泊先は、前半は敷地内にある【ロバートブラックカレッジ(柏立基學院)】、後半はコーズウェイベイ(銅鑼灣)にあった【キャセイホテル(國泰酒店)】という内容。
クラスは、初級と中級の2班に分かれ、教材も用意されていましたが、オプション購入だった気がします。
参加者の7~8割がたは女性。私よりも香港に詳しい人達が多くいらして色々教えてもらったり、香港人の友達もでき始め、文化・習慣にも馴染んでいくようになりました。
香港通いを繰り返す
その後、翌年の「夏期講習」にも参加し、その前後も3泊4日ほどの日程で香港へ行くようになりました。そう、年休は全て香港へ。
週休は、香港大学で知り合ったクラスメイトや在日香港人達と新大久保(今やコリアンタウン。かつてはリトルチャイナタウン)辺りへ行き、中華食材を買ったり、ビデオを借りたり、広東語カラオケへ行ったりしていました。
今や日本語フリー誌の"香港ポスト"。当時は有料の週刊誌で毎週香港から郵送してくれる購読サービスがあり、一部900円ほどでしたが唯一最新の香港情報が得られたので届くのがとても楽しみでした。
気付けば、プライベートはすっかり香港モード。いわゆる"香港迷"。寝ても覚めてもという感じだった気がします。
香港への移住を決意
そんなこんなで、初めての香港旅行から2年が経ちました。
その時、私は大手アパレルメーカーさんからご依頼を受け、大手百貨店内のレディースブランドショップの販売代行業者として自ら事業をおこなっていました。
若いし、女だし、周囲からは小娘が生意気にと見られていたと思いますし、実際自分も未熟でしたし、日々の売上、従業員のシフトなどなど毎日胃が痛くストレスを抱えていました。
ある時から、年齢も性別も関係なく、自由で陽気でアグレッシブな香港。日本ブームが起こり始めている香港で、日本人がゆえにこんな自分でもワンステージ上がったところから何か出来るんじゃないか?と思うようになりました。
しかし、何か当てがあったわけでもなかったので色々と迷い悩みましたが「我が人生、一度くらい海外でチャレンジしてみるか!」と決意。事業契約は更新せず、新築マンションに引越し家具も新調しましたが全て処分し、賃貸契約も9カ月で解約。
1998年9月1日、貯金をトラベラーズチェック(当時USD147-8円台)にまとめ、ユナイテッド航空の片道チケットで成田空港から香港へ渡り、現在に至る事になった経緯です。
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