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心の拠り所考 『「昭和」を送る』

心の拠り所ということで忘れ得ぬ話がある。中学校の教科書に載っていたものだ。成人してしばらくは義務教育から高校までの教科書や副読本を全て保管していたのだが、貧弱な住宅事情のためいつの間にか手放していた。ただ、いくつか脳裏から離れないものがあって、その一つが「一切れのパン」という短い物語だ。義務教育の教科書に採用されるような話なので、いつでも原典を入手できるだろうと、自分の記憶を確認する作業を怠っていた。数年前に、何かの事情で急に気になることがあって、探してみたのだが容易に見つけることができなかった。その理由の一つは、その話の題を「最後の一切れ」と誤って記憶していたからだ。もう一つの理由は、作者のフランチスク=ムンテヤーヌにこれ以外の日本語訳作品が無い所為だった。中学生のときの国語の教科書は光村図書が発行したものだったが、光村の担当者はなぜそんな作家の作品を教科書に掲載したのだろうか。謎が一つ増えてしまった。ようやくその光村図書が教科書に掲載した作品を集めた本を出していることを突き止めた。

「一切れのパン」の舞台は第二次世界大戦中のルーマニアとハンガリーだ。主人公の「わたし」はルーマニア人で、隣国ハンガリーのブダペストに住まい、同地にある水運会社に勤務している。ドナウ川を往来する船に乗務しているのである。ある日、船をブダペストの港に接岸し、乗船勤務を終えようとしていたところに水上警察の一団が乗り込んできて「わたし」は逮捕されてしまう。ルーマニアもハンガリーもドイツの同盟国だったが、1944年8月にルーマニアでクーデターが起こり、新たに樹立された政府はドイツとの同盟を破棄してソ連と同盟を結んだ。ハンガリーは依然としてドイツの同盟国だったので、ブダペストで「わたし」は敵国人になってしまったのである。捕えられた敵国人はまとめて貨車に乗せられ強制収容所へ送られる。ドイツの強制収容所については以前に書いた。

たまたま「わたし」が乗せられた貨車の床板に腐ったところがあり、何人かの収容者がその床板を剥がした。戦争中なので頻繁に空襲に晒される。列車が空襲で立往生した隙に収容者の何人かがその床板を剥がしたところから脱走を図る。「わたし」もその一団に従って貨車の下に出る。その時、「わたし」と一緒に脱走しようとした老人がいた。言葉のアクセントから老人はユダヤ人であることが明らかだった。しかし、老人はユダヤ人としてではなく、ルーマニア人として逮捕されていた。ユダヤ人がどのような目に遭うかは既に市井の人々の間でも認識されていたので、老人の体力のことやユダヤ人としてではなくルーマニア人として逮捕されていることを考え、「わたし」は老人に列車に残ることを勧めた。老人はしばらく考えた後、「わたし」の助言に従うことにした。別れ際、老人は忠告に対する礼だと言って小さいハンカチの包みを差し出した。中にパンが一切れ入っているという。そしてこう言添えた。
「そのパンは、すぐに食べずに、できるだけ長く保存するようにしなさい。パンを一切れ持っていると思うと、ずっと我慢強くなるもんです。」
列車は動き出した。脱走した面々は発見される危険を回避するため、単独行で逃げることに決めた。「わたし」はどことも知れない場所で一人になった。

「わたし」は一旦は空襲で燃えていた街を目指したものの、ドイツ兵らしき軍隊がいて近づけなかったので、線路に戻り、列車が去ったのと反対方向、列車に乗せられたブダペストの方向へ歩き出した。しばらくすると鉄道会社の職員が現れる。もう数日もの間飲まず食わずなので空腹に耐えられず逃げることもできず彼に食べるものはないかと尋ねる。職員によれば、職場にもドイツ兵がいてそういうものを持ち出すことができないという。職員の助言に従って線路を離れ、林や野を行く。国道に出た。空腹に耐えきれず、老人にもらったパンに手をつけようとしたとろに、一台の乗用車が通りかかる。咄嗟に「わたし」は車に手を振って止めた。運転していたのはドイツ兵だった。あまりに空腹だったので恐怖を感じることもなく、水運会社の身分証を見せてブダペストへ行きたいと話した。すると、ドイツ兵は乗れと合図した。結局、パンを食べる機会を得ないままブダペストへ戻った。なんとか自宅へ帰り着くと妻は逮捕を免れたようで無事に暮らしていた。妻の作る料理の匂いのなかで、妻に「これがぼくを救ったんだよ」と言ってポケットからパンの包みを出した途端、空腹と安心とで「わたし」は倒れてしまう。手を離れた包みが解け一片の木切れが転がった。

という物語だ。信じることができさえすれば、心の拠り所は実体があろうが無かろうが関係ないのである。「鰯の頭も信心から」という言葉もある。この「一切れのパン」は特殊な時代の特殊な状況下の話に聞こえるかもしれないが、我々は日常の中で大小様々な「一切れのパン」を抱えて生きている気がする。自分はこれが生命線だと思い、心を励まして艱難辛苦に耐えているつもりが、他人からは滑稽な執着にしか見えない、なんてことはよくあるだろう。
「あの人、「パン」って思ってるみたいだけど、どうみても木片だよな」
ということはたくさんある。そのときに、本当のことを指摘することが必ずしもその人の救いになるとは限らない。そもそも「本当のこと」なんてものが本当にあるのか。

憂きことも嬉しき折も過ぎぬれば
ただ明け暮れの夢ばかりなる

尾形乾山の辞世の歌とされている。乾山が何を思って詠んだのかは知らないが、なんとなく浮世は何もかも夢のようなものだったな、と思う。

見出しの写真はドナウ川。ウィーンのDonauturmの展望台からの風景。1989年5月22日撮影。

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