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中井久夫 『「伝える」ことと「伝わる」こと』ちくま学芸文庫

中井の本を何冊も買ったので、粛々と読んでいる。医業の専門誌をはじめとする様々な媒体に掲載された原稿や講演録・対談録を再編した著作集なので、何冊か読むと内容の重複もある。同一の著者の手になるものなのだから、似たような内容のものが複数の媒体に掲載されることに何の不思議もない。重複していることが著作集の中にあるということは、そこに書かれていることが著者の思考の要ということでもあるのだろう。以前に読んだ森繁久彌の著作集でも同じようなことを感じた、と今思い出した。

自分がnoteに駄文を書き殴るようになってもうすぐ丸三年になる。自分の場合は賃労働者で生活そのものが単調なので、特に意識することもなく、たぶんより顕著に同じようなことを繰り返し書いている。備忘録のつもりなので、読み返した時に似たようなことが縷々書かれていることに何事かを思うというのも、それはそれで愉しかったりする。

本書を読んで考えたことは、やはり言葉のことが多かった。しかし、言葉のことは既にずいぶん書いているので、今さっき重複がどうこうと書いてしまった手前、備忘録とはいえ、言葉のことをまたここに書くのも躊躇われる。と、うだうだと書き出すとまた長くなる。

自分の記事が無駄に長いことが気になっていた時期もあった。だが、中学受験の国語の問題の基本構成が約一万字の長文読解が2問と若干の小問であるという話を聞いて、五千字前後の記事は「長い」うちには入らないと思い直し今日に至っている。自分自身は居住地の公立学校で義務教育を受け、中学受験の経験はない。中学受験の国語の問題云々は小耳に挟んだ話であって本当はどうなのか知らない。しかし、五千字程度のものを書いたり読んだりすることが億劫になったら、生理的な寿命はともかくとして、或る意味での最期が近いということだろう。ま、それにしても無駄に長いのは、やはりみっともないとは思う。少し反省。

最期といえば、最近ネタにした平家物語には会者定離、盛者必衰、諸行無常といった言葉が出てくるし、医療の方でも病気の原因の根本は加齢であるというような話をよく耳にする。生物種としての人間ではなく、一個人としては必ず終わりを迎えるということを考えないわけにはいかない。種のほうも永遠不滅というわけにはいかないだろうが、そっちのことは知ったことではない。

何ごとも永遠なものはなく、一般に対人関係も無限に持続しうるものはない。離婚の増大は平均寿命の延長が最大の原因であるという意見がある。二十年目に離婚の一つの山があるというが、数十年前は、夫婦は一般にそれだけの期間を共に過ごさずにどちらかが死亡していたのが普通だったそうである。治療関係にも十年あたりに一つの節目、二十年あたりにもまた一つの節目がありそうである。別の治療者が診ると全く新しい前向きの治療関係が生じることが結構あるので、これは患者個人の病気とは別個の、治療関係自体の持つ限界というのが正しいと私は思う。

本書113-114頁 「精神病水準の患者治療の際にこうむること—ありうる反作用とその馴致」

私が離婚したのは結婚から15年6ヶ月目のことだったが、しくじったなと思い始めたのは結婚から6ヶ月目くらいだ。性懲りも無く再婚してはや10年。相手が変わることで変わることは当然あるが、変わらないこともあると知る。

そんなことはともかくとして、人は他の生物種と異なり、無力な状態で生まれて、自活できるようになるまでに10年や20年はかかる。自活できるようになるまでの所要期間は、本人の能力というよりは置かれた社会の在りように左右されるだろうが、それにしても1年や2年ではどうにもなるまい。産んだ方から見れば、子育てにそのくらいの長い時間がかかるということでもあり、そのことが社会や文化を規定する一つの要因になる。

よく夏場に私のnoteに登場する燕は、雛が孵って親鳥から給餌を受けているのはひと月ほどのことで、すぐに親だか子だか見分けがつかないくらいに成長して巣立ってしまう。人はそうはいかない。生理的には10年ほどで何とかなったとしても、社会的には生涯自立できずに終わるなんてことも当たり前にある。

そういう生物種が様々な道具類を駆使して地球上の資源を消費して他種を駆逐しながら数を増し、今やおそらく誰もが、意識するとしないとにかかわらず、我が物顔で暮らしている。近頃は気候変動が自分たちの暮らしを脅かしているとあたふたしているようだが、その根本原因は自分たちが増え過ぎたことにあるのではないか。最近話題を集めた感染症に至っては、適度な個体密度が維持できていればそもそも爆発的に蔓延するはずはないだろう。それがああなったのは我々が多すぎるからではないか。都合の悪いことは他者の所為にして、自己の存在を正当化することに執着するというのは個人の人格以前に生命そのもののありようなのではないか。と、その生物種に属していながら我が物顔で他人事のように語ってみたりするわけだ。

下の図のなかのCO2の濃度のグラフとよく似た形をしている。出典:国連人口基金駐日事務所ホームページ
佐野貴司・矢部淳・齋藤めぐみ 『日本の気候変動5000万年史 四季のある気候はいかにして誕生したのか』 講談社ブルーバックス 236ページ 図7-5 (A) 桜花・年輪記録から推定した気候(田上から引用)、(B) 気温(マンの図を簡略化)、(C) 大気中CO2濃度(マンシャウゼンらの図を簡略化)、(D) 太陽活動度(宮原の図を簡略化)

しかし、まぁ、なんだかんだ言ったところで何がどうなるわけでもなく、結局物事はなるようになるのだろう。変化だの改革だの革新だの革命だのと言ったところで、時間軸の取り方次第で如何様にも語ったり騙ったりできる。時々刻々時が流れていく中でナニをするでもなくカニをするわけでもなく薄っぺらな一個人の生涯は暮れていく。変化を求めるのは単に欲求不満であるというだけのことで、その無駄にしぶとい欲望がとりあえず満たされれば次なる別のしぶとい欲求が湧き起こる。無限地獄とか無間地獄といったような状態で、だからこそ世の中は回っていく。本来的に生物というのは自己の存在を確保したいわけだから、確保したことに対しては保守的にならざるを得ない。

 精神といい、身体といっても、いずれもきわめて保守的なものである。
「保守的」という意味は、同一性、恒常性保持のために全力を尽くすという意味である。変化が生じるたびに、変化を打ち消す方向に全体が動く。
(略)
 身体のシナリオである、例のDNAは、結晶ほども堅固であるばかりか、損傷が起こると修復酵素を作り出す。実にみごとなものである。

本書47頁 「解体か分裂か—「精神=身体と”バベルの塔”」という課題に答えて」

己の欲望でも、なぜか人類の未来のためとか地球環境のためとか人々の幸福のためという大義名分を振り翳す。そして、その先に目指す世界の構想を騙る、いや、語る。しかし、その追い求める理想が未だ見ぬ未来というよりも、かつて存在したと思い込んでいる遡及的錯覚の塊のようなユートピアだったりする。尤も、人は経験を超えて発想はできないので、未来を思い描いているつもりが美化した過去を夢見ているだけとなるのは致し方ない。また、未だ見ぬ未来を語ったところで聞く側にも理解されないだろう。

中井:(略)ずいぶん昔、筑摩叢書の『ユートピアの歴史』(ジャン・セルヴィエ著、朝倉剛・篠田浩一郎訳)という本を読んで、なるほどと思ったのは、ユートピアというのは未来ではなくて、過去を志向しているんだと。バビロニアとかメソポタミアの都市で部分的に実現していたものに、人間はあこがれて、そこに戻ろうとしているんだという主張ですね。
 バビロニアの都市の想像図を見ると、なるほど変わらないなあと。手塚治虫さんの漫画に描かれている未来都市でも、そういうところから抜けられない。都市を人工的に創造するときの人間のイマジネーションは、どれだけの可能性、どれだけの幅を持ちうるんでしょうかね。
磯崎:ほとんどネタは限られているという感じがしますね。

本書311頁 中井と磯崎新との対談録「都市、明日の姿」

「限りない未来」だとか「普遍的な」ナントカだとか言うけれど、本当に「限りない」のか「普遍的」なのか誰も知らない。思考の「ネタは限られている」のが現実だろう。たぶん我々はわかりもしないことをわかったようなつもりになって、よってたかって世界をぐじょぐじよにしている。ぐっじょぶ、とはそういうことか?

人は何もわからなく生まれ
人は何もわからなく生き
人は何かわかったような顔で死ぬ

『全著作 森繁久彌コレクション5』藤原書店 238頁

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