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中井久夫 『「つながり」の精神病理』 ちくま学芸文庫

中井のことは今年になってアマゾンの「あなたへのおすすめ」で見かけるまで全く知らなかった。もともと戦中戦後の世相に興味があって、中井の『「昭和」を送る』に目が行った。それだけというのもナンなので、中井の作品をまとめて注文して、それが部屋の隅に積み重ねられている。それをこうしてぼちぼちと読んでいる。本書も大変興味深く、本書だけでいくらでも何事かを書くことができそうな気がする。とりあえず表題作に限定して思いついたことをまとめておく。

表題作は「青年心理」45号(1984年)に掲載されたものなので、精神医療に関係する人を対象に書いたものだろう。この主題は、「人と人とのきずなは、いつうまれるのか」ということのようだ。絆が生まれるためには、まず主体性のある存在としての人がなくてはならない。その「人」はどのように形成されるのか。

本篇を読んでなんとなく自分に友達がいない理由が了解できた気がする。以前にも書いているが、私は子供の頃は偏食だった。それが修正されるようになったのは、振り返ってみれば、大学生になって家庭教師のバイトをするようになり、他人様の家で食事をいただく機会が増えたあたりからではないかと思う。食事はバイト料には含まれていなかったが、前後の流れで「先生、よろしかったら晩御飯召し上がっていきません?」とお誘いを頂くことがある。特に予定がなければ、そういうお誘いを素直に受けるのが礼儀だと思うのである。食事を誘う家というのは、料理にある程度の自信がある家でもある。そこで好き嫌いは言えない。実際、それまで嫌いだと思っていたものが食べてみたら旨かったという経験が積み上がる。要するに自分の家の料理が不味かったということなのだ。貧しい家だったので、母も近所の製本工場で力仕事をしていて家事に注力する余裕が無かったという事情は確かにあった。それにしても、である。出汁を引かないで作る煮物や味噌汁が旨いはずはない。そういう家庭料理の当たり前を知るのが10代の終わりから20代に初めにかけてというのは、今から思えば、問題だったと思う。

 精神科医は、三十歳くらいで人間の人格が固まるとよくいうが、食事習慣の固まりと人格の固まりとは深い関係があるだろう。食事は味覚だけでなく視覚や臭覚、触覚、さらに香辛料の一部には三叉神経を介する痛覚が参与し、重量感、内臓感覚、食卓の対人感覚、過去の個人的・集団的体験、知識、雰囲気、儀式も大きな意味を持って参加する対人的な事象である。文化人類学者が異文化と接触してまず行うことは、共同の食事である。

138頁

人間関係を構築する上で食を共にすることの重要性は、今ならわかる。しかし、あの頃はわからなかった。食には人間の特異性がある。霊長類は果実食が基本だそうだ。森で暮らしているなら、木から必要なだけ採食して、空腹になったらまた木に成っているものを同じように食べればよい。しかし、人間は進化の過程で森を出て草原に生活の場を移した。その移行過程で肉食が取り入れられた。小魚や小動物ならともかく、ある程度の大きさの動物の肉は一度に食べきれない。そこで複数の個体が協働して獲物を確保して共同で食べるという行動が生まれる。

動物園の猿山を眺めていると、エサを食べる時は各自がそれぞれ没交渉のうちに食べている。私は食に関して猿に近い。食卓を囲んで会話をしながら、というのは今でも苦手だ。仕事で接待の時などは仕方なく頑張ったが、食事の時は食べることに集中したい。会話は食事が終わってからだ。一度にいくつものことを並行してできない。「人間」風の食習慣を充分に形成しないままに成長してしまった、ということだろう。それは即ち人間関係形成の能力に何かしらの欠損を抱えたということでもある。

 このような人と人とのきずなは、いつ生まれるのか。年齢に従って消長するらしい。たとえば、同一言語を母語とする—これはいうまでもなく強いきずなだ—集団への加入は八歳くらいまでで、その後は不可能ではないが意識的努力が必要で過程も緩慢になる。国籍などを超越した友情は、1980年代の日本では二十歳あたりが自然成立の境界線らしい。それまでに成立した友情には、背中に国旗が翻っていない。神戸あたりでの日常見聞だ。それ以後だとどうしても「日本ではね…」「われわれの文化じゃこうなんだが…」という文化的ステロタイプから逃れることは、私の体験でも見聞でも意外に難しい。
 食事はどうも三十歳あたりに限界線がある。文化人類学者には異文化の中にはいって長期間生活する「フィールドワーク」が欠かせない。しかし、三十までに国外に出たことのない人は現地食に馴染みにくく、3週間もすると。のりまきや大根おろしやみそ汁が目の前にちらついて困るという。それまでに一つの外地食に馴染んでおけば方々の現地食が苦にならないのだから、三十歳くらいに日本食との排他的なきずなができあがるということだろう。

137-138頁

日本以外の土地を初めて体験したのは大学3年と4年の間の春休みのことだった。1984年3月のことだ。オーストラリアでひと月過ごした。直行便は高くて手が出せなかったので、マレーシア航空で、成田から福岡、台北、香港、ペナンを経由してクアラルンプールに行く便に乗り、クアラルンプールで二泊して、フランクフルト発クアラルンプール経由シドニー行きの便に乗り換えた。だから、私の初めての外地食はクアラルンプールの食堂で食べた焼きそばのようなものということになる。穏当な体験だ。

食習慣が十分に確立されていないということは、比較的柔軟に様々な食とそれにまつわるあれこれを受容しやすいということでもある。オーストラリアの翌年はインドに出かけて1ヶ月ほど過ごした。そのことはここにも書いた。さすがにインドの食事は殆ど喉を通らなかった。旨いとか旨くないとかということ以前に、辛くて食べられないのである。腹が減るので食べないわけにはいかず、屋台でバナナなどの腹持ちの良い果物を買って食べていた。果実食というのは、今から振り返れば栄養バランスやカロリー補給の面で正解であった。何しろ、遠い祖先はそのような食生活を営んでいたのだから。

社会人になって、最初の数年は営業職だったので、食に関してはマナーを含めて鍛えられた。その後、イギリスの大学に留学して、別の意味で鍛えられることになる。思い返せば、大学時代から社会人始めにかけての約10年が、自分にとって食習慣形成期になっている。「食事はどうも三十歳あたりに限界線がある」と言うが、その限界線にギリギリ間に合ったかのようだ。

しかし、「ギリギリ」ということは、要するに間に合っていないのである。様々に経験を積んで、それらが自分の人格であるとかモノの見方であるとか人としての根幹の部分を形成するほどに熟成し定着するというところまで至っていない。所謂「大人」というのは、自分と異なる価値観であっても、共有できるところや妥協できるところを見つけ出して上手く折り合いをつけて交流し、穏当に相互の立ち位置を確立できる能力があるということだと思う。「自分」という主体が無ければ、それに対する相手を認識できず、自他の別が無ければ「関係」の構築のしようがない。この辺りのことが自分には欠けている気がする。つまり「大人」になっていないのである。

友達がいない、と書いているが特に友達が欲しいとも思っていない。初対面の人と話をする時、大体5分も会話をすれば相手の人となりのイメージがなんとなくできてしまう。人間の脳の性質として、それはその時々の自分にとって都合の良いように拵える。その結果として形成された相手のイメージに対し、私の場合は、警戒心が抜けないのである。つまり、まずは信頼する、ということができないのである。それは多分、きちんと出汁を引いて作ったものを食べずに成長した所為だ。

「旨い」あるいは「美味い」と感じる経験は、細胞レベルでの経験だと思う。世に言われるところの「グルメ」だとか「食通」だとかいうものは、大抵はマスメディアとか世間の権威に迎合して屁理屈をこねくり回しているだけのことなのだろうし、そこに迎合することで自分が何者であるかを語ろうとするのは所詮そういう了見の人間であるに過ぎない、と思っている。つまり、知識として保持していることと、細胞レベルで積み上げた経験の総体とは自分の中の落ち着きどころが全く異なると思うのである。知識には正解がある。経験は自分でどうこうする以外にどうすることもできない。自分でどうこうした経験が豊かな人とそうでない人とは、生き物として全く別物である気がする。

 対人相互作用の前提は場の形成であり、相互作用は一種の波長合わせ(チューニング・イン)が不可欠因子である。一般にはお互いに相手に通ずる波長帯を捜すのだが、治療関係においては治療者が主に波長合わせを行う役とされている。しかし実際には、患者のほうが波長を合わせようと治療者のダイアルをしきりにがちゃがちゃいわせていることも少なくない。波長が合った場合は、音声(トーン)がふくらみを帯び、その倍音に多くの感情的な情報をのせて伝達が行われる。一種のよどみなく流れる快感があり、相手あるいは自分という意識が希薄になり、共同作業で一つの情報の織物を織っている感じに近づき、後に満足感が残る。音声が言語内容よりも精神科面接においてはるかに重要であり、豊かに伝達的である。

141-142頁

昨今は情報端末を通しての遣り取りだけで物事が片付けられてしまうことが多くなったが、生身の人と人との関係構築はやはりそれでは無理だろう。きちんと相対し、五感を総動員した上に第六感にも十分な注意を払った上で、ようやく対人関係の端緒となる場ができあがる。人間関係はそこから始まる。そうやってできる友達なら欲しいと思うのである。

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